白洲次郎・正子夫妻が当時のこの国でどのような立場の人だったのかについては、あまり理解していないのだけれど、町田の鶴川のほうに今でも残されている旧白洲邸“武相荘”には、一度見学しに行ったことがある。豊かな生活ぶりがしのばれた。──細い線で色柄が描かれた椀や小鉢は、“麦藁”と呼ばれるもので、江戸時代の瀬戸だという。太い線と細い線がリズム的に配置されていて面白い。ほかに、“古代ガラス”や、法隆寺や神護寺などの金銅の法具で作ったアクセサリなどには、ちょっと驚いた。今ではできないことだろう。
ゴッホ展 @上野の森美術館 10/19
10/11(金)から始まったこの展示、混雑必至なので早めに行ってきた。土曜日の夜間開館を狙って夕方に上野へ。
■ゴッホ展
ゴッホ展とは言いつつ、“ハーグ派と印象派とゴッホが3分の1ずつ展”だった。──最初は若いうちのゴッホ。馬車乗り場にたたずむ女性や駅の待合室に座る人々を描いた、風俗画っぽい画題だけれど、色彩は茶色っぽく、暗い。でも不思議と印象に残る。
ハーグ派とは同時代のオランダの画家たち。ヨゼフ・イスラエルスの静かな絵が気に入った。
(public domain via Wikimedia Commons)
ゴッホの絵に、だんだんと強い色彩があらわれてきて、見ていて目にも鮮やかだし、面白くなってくる。強い赤が散らばる『麦畑とポピー』や、オレンジ色のぼさぼさな髪の女の子を描いた絵など。
そして最後の日々…、ゴッホは、アルルでおかしくなってしまってから死ぬまでの絵が一番すばらしいと思っているのだけど。『サン・レミの療養院の庭』は前にも東京に来たことがあるけど、これ好きなんだよね
(public domain via Wikimedia Commons)
その最もすばらしい時期の作品が、この展示では最後の狭い部屋に押し込められており、そしてその部屋の奥に、メトロポリタン美術館の『糸杉』があった。──わけのわからない力を感じる!
(public domain via Wikimedia Commons)
会場の狭さと混雑には閉口したけれど、すっかり感心して、美術館を出た。
10/11(金)弘前(2) 洋館と禅林
追手門からお城を出る。近くには弘前市庁があるが、これまた前川國男の建築である。弘前には前川國男の建築がほかにもいくつかあるらしく、先ほどの市立博物館の隣にあった、コンクリート打ちっぱなしの市民会館もそうだった。
弘前市庁の近くには、明治の洋館が二つ、保存されている。──まず、旧東奥義塾外人教師館。1階はカフェになっているが、2階の見学は無料。
東奥義塾は米国からメソジスト派の人たちを招聘していたので、その住居も米国様式であり、どことなく赤毛のアンとかっぽさを醸し出している気がする。
旧弘前市立図書館。小さいけれど堂々とした尖塔を持つ洋館で、明治39年に民間資本で建てられたものだという。
藤田記念庭園。岩木山を借景にした、品の良いお庭だが、洋館との取り合わせが独特だ。
洋館は“大正浪漫喫茶室”だそう。
*
20分ほど歩き、禅林街までやって来た。町はずれに仏教寺院が固められた通りで、古い城下町にはそういう一角がときどきあるが、ここは曹洞宗の寺院ばかり、33ケ寺もあるそうだ。
ここに来たのは、地図を眺めていて、「栄螺堂」の文字が目に入ったため。
さざえ堂というと会津若松のものが有名だが、弘前にもあるのか、と思って来てみたのだけれど、ここのさざえ堂は中には入れなかった。
禅林街の通りの奥にある、長勝寺。
*
路線バスに乗って弘前駅前まで戻ってきた。時刻は13時半頃。駆け足だったけれど、弘前は、どことなく高雅な雰囲気で、歩いていて気持ちの良い町だった。
さて、この日は、このあと盛岡まで行って宿泊し、翌土曜日は岩手の親戚に会いに行く予定だった。だが、巨大な台風15号というのが関東から東北にかけて直撃することになっているのが問題だった。土曜日から日曜日にかけて鉄道の運休などが予告され始めている。もともと、台風が来るのは日曜日から月曜日にかけてではないかと予想していて、土曜日中は大丈夫だろう…と思って旅程を計画していたのだが、そういう状況ではないようだった。前日まで、日本海側を旅行しながら、どうしたものかと考えていたが、この日に至って、旅程を切り上げて早めに東京に戻ることに決めた。実は日曜日のホテルも押さえてあったので、土・日を切り抜けられたとしても、万一、東北新幹線がどうにかなってしまって東京に戻れなくなると、困ってしまう。
弘前駅のみどりの窓口には行列ができていた。同じように旅程を変える人たちや、今日中に移動してしまおうという人が多いのだろう。指定席券売機で、東北新幹線の上りの『はやぶさ』の指定席を見てみると、軒並み「×」になっていたが、…グランクラスが取れる。迷ったけれど、とりあえず新青森から東京までのグランクラスを押さえた。
しかし、グランクラスに、そういう緊急避難みたいなかたちで乗るのは、どうにも寝覚めが悪い。あれはなんというか、旅行を計画して、もっとわくわくした気持ちで買いたいものだ。もちろん、値段もだいぶ高いし…。あきらめきれず、ドトールコーヒーショップで休憩しながら、『えきねっと』をスマートフォンで見ていると、やはり座席は動いているようで、同じ列車の普通車指定席が取れるタイミングがあったので、取ってしまった。しかも通路側の席。──券売機で発券して、みどりの窓口に並びなおし、先ほど買ったグランクラスの特急券を払い戻した。
満を持して、弘前駅14時47分の特急『つがる3号』に乗って、新青森まで約30分。
新青森駅。2011年の7月以来だ。ここから16時10分の東北新幹線『はやぶさ62号』で帰京した。始発の新青森から上野まで、3時間16分。弁当を食べてビールを飲んで、少しうとうとしていると、あっという間に着いた。速いものだ。──台風で旅程の変更を余儀なくされたのは残念だが、この金曜日は東海道新幹線などでは大混乱になっていたそうだし、適度に座って帰って来られたのは幸いだった。
10/11(金)弘前(1) 教会と城跡
金曜日は少しゆっくりホテルを出た。今日は弘前の市内を散歩する日。とりあえずお城の方向に歩くけれど…
教会だ
日本基督教団弘前教会だ。明治39年に建てられたもので、東北最古のプロテスタント教会だそうだ。明治以後の弘前は、東奥義塾に学んだ人々を中核として、キリスト教布教の中心地になっていたらしい。案内のちらしには、双塔式ゴシック風木造建築、とある。
教会なのに襖と扁額があるのが独特。
聖餐台に置かれている、この柄杓のような籠(喜捨を集めるのに使うもの)は、伝統工芸のあけび細工でできているのだそうだ。
*
少し離れたところに、カトリック弘前教会がある。こちらも明治43年に竣工したものだという。
ステンドグラスなどは新しいものだと思うけれど、祭壇の重厚さに、息をのむ。
本気のゴシックだ
でも祈祷台の下は畳敷き。地域に根差している感じがいい。
*
近くには仲町という通りがある。武家屋敷の街並みで、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)だというのだけれど…
見た感じ、古い建物自体は、あまり残っているようには見えなかった。
“旧岩田家住宅”を見学。
北門から弘前城に入る。
お城は中国人観光客でいっぱいだった。なぜこんな東北地方の町に?と驚いた。アイスクリームの屋台にはもはや“冰淇淋”と書いてあるくらいだ。だが、日本っぽいインスタ映えを求めているだけらしく、天守のある有料区画に入る人はほぼいないようだった。
ぼくは弘前城に来るのは実は3回目である。最初は真夏、2度目は豪雪の冬、そして今回が紅葉の前の中途半端な秋なので、どれも印象が違うのは仕方ない…にしても、天守はこんな感じだったっけ? ──と不思議に思ったが、それもそのはず、なんと弘前城では、天守を支える石垣が崩落しそうになり、修復するために、天守を曳家して場所を動かしたところなのだそうだ。…天守を曳家した? と驚いたが、実は明治時代にも一回曳家しているという話なので、二度驚く。
改修中の石垣。
*
城内の弘前市立博物館。レンガタイルが、どことなく東京都美術館に似ている。それもそのはず(?)、これは前川國男建築で、東京都美術館の数年後に建設されたものだそうだ。
『光ミュージアム 近現代日本画の軌跡』を開催中。光ミュージアムとは、飛騨高山にある新興宗教団体系の美術館であり、そこの所蔵品が来ているようだ。日本画はそれほど好きでもないので、少し迷ったけれど、見物していくことにした。
しかしこれが、よかったのだ。菱田春草の『帰牧』、夕暮れの空の淡い色、薄墨で描かれた徐々に暗くなっていく遠景の木々や茂み、しみじみいいな、これ…と思った。美人画のコーナーでは、どうも媚びたような表情の上村松園の女性に対して、すっきりした鏑木清方の女性が好みである(似たような感想を最近ほかのところでも抱いていた気がする)。──戦後絵画のコーナーでは、加山又造の『夜桜』という大作の屏風絵が圧倒的であった。黒い闇に桜と炎が浮かび上がる。これは左右の隻を入れ替えても絵がつながるようになっているそうだ。夕闇の奥山に咲く一本桜をズームのようにして大きく描いた、佐藤太清の『旅愁』も、印象的な作品だった。
10/10(木)十二湖
白神山地に行ってみたいと思っていた。深い山、ブナの林を歩いてみたい。そして、“十二湖”という景勝地がある。森の中に、深い青い色の池があるらしい。──しかしこの十二湖という場所は、どの都市からもそれなりに遠く移動時間がかかる上に、公共の交通機関で行くには本数が少なすぎて、なかなか簡単ではなかった。JRの五能線というローカル線が、秋田県の能代(奥羽本線の東能代)から海沿いに北に向かって伸びており、その路線の十二湖という駅で降りればよいのだが、普通列車が1日に5本程度しか走っていないし、行って帰ったらそれだけで、事実上、丸一日が終わることになる。
しかし、一日くらい、使えるときに使ってもよいだろうと思った。──というわけで、この東北旅行に、朝の秋田からスタートして、夜に弘前に着いて宿泊するという旅程を組み込んだ。
*
秋田駅、朝8時20分に発車する、快速『リゾートしらかみ1号』、五能線経由の青森行き。これは全席指定席の観光列車で、当日思い立っても乗れないという意味では、面倒な列車だけれど、五能線の本数の少なさを補っていると言えなくもない。実は前夜に秋田駅の指定席券売機で、指定席を取っておいた。
座席は広くてゆったりしている。ぼくの乗車券は奥羽本線を弘前方面に行く経路なので、車内で車掌さんを呼び止めて東能代ー十二湖間の運賃を精算する。
「左手に、なまはげで有名な男鹿半島の、真山(しんざん)と寒風山(かんぷうざん)が見えてまいります」と観光アナウンスが入る。
一時間ほど走ると東能代に着いて、ここから五能線に入る。列車の進行方向が変わるので、乗客はばらばらと立って座席を回転する。──その次の能代では、10分停車して、バスケットボール体験ができます!というアナウンスがあった。見ると、駅のホームにバスケットのゴールがあって、スローインにチャレンジできるんですって。
そして、意外にそれを、お客さんが、やるんだね。面白いね
車窓に荒磯が。でも今日はいい天気で、よかった。
*
10時26分に十二湖駅に着いた。意外に10人以上が下りて、路線バスを待つ。10時40分に、奥十二湖駐車場行きの路線バスがやって来た。海岸の平地から、一気に山中に入る感じだ。ものの15分で終点に着いた。すでにここまでの車道に沿ってもいくつかの池があった。
終点の“奥十二湖駐車場”は、物産店“キョロロ”と、駐車場があるだけのところで、散策路の入口である。売店で買ったパンを食べてから、森の散策路をたどった。
森に囲まれた湖には、木の株が水漬いている。ときおり、水鳥がもぐったり出たりする音が響く。
10分ほど歩いたところに、“青池”があった。森の中のくぼ地に、不思議な濃い青色をした水が溜まっている。
水は透明のはずなのだが、なぜこんなに青く見えるのだろう。中国語を話す観光客も、声を潜めていた。
*
道はさらに続く。森を歩いてみようと思う。
青池を上から見下ろす
明るい広葉樹林。
…ただ、ものすごく大雑把な地図(駐車場に立っていた看板を撮影したもの)しか持っていなかったこと、そして、道標が整備されているようであまりあてにならなかったこと(一か所、明らかに道標の向きが間違ってて道を間違えたところがあった)から、若干、森の中を彷徨うはめになった。やはり、こういうことをしてはいけません…。
ものすごく大雑把な地図
青池から、“金山の池”と“糸畑の池”を大回りして(するつもりはなかった)、“リフレッシュ村”に至り、そこから“沸壺の池”→青池に戻ってきたのだが、青池・沸壺の池より奥では、ハイキングする人など、他には誰ひとりとしていなかった。
すばらしい色合いに思わず足を止めた、“沸壺の池”。
道に迷ったりはしたけれど、こういうところを歩きたいと思っていたので、満足だった。来てよかった。今回の旅行はハイキング用の靴を履いてきたことも、正解だった。
*
13時半過ぎに、駐車場に戻ってきた。これでも3時間ばかり歩いたので、物産店で蕎麦を食べて昼食とし、しばらく休憩した。それにしても、観光客の半分以上が中国語圏の人である。どうやら小規模な団体ツアーの人もいるし、公共交通機関などで移動している個人旅行者の人もいるようだ。東北地方のこんな奥地にまで中国の観光客が来るようになったというのは驚きだし、家族連れの子供が大声を出すと「静かにしなさい」などと注意しているのにも、時代が変わりつつあるな、と思った。
14時15分のバスで山を下り、十二湖駅に戻った。30分ほど待つと、15時05分の五能線の東能代行きの普通列車がある。駅の物産店で缶ビールを買って道端で飲んでいると、路線バス1台に乗ってきた観光客しかいなかったはずの十二湖駅に、観光バスツアーが2団ほどやってきて、ごった返している。なんだなんだ、と聞き耳を立てていると、ここからあきた白神まで、30分ほど、五能線の普通列車に乗る行程が組まれているらしい。なんだそれ…激混みになるじゃないか、バスツアーはバスで行きなさいよ…と思ったものの、ある意味ではそういう団体ツアー客がローカル線を支えているのかもしれず、何とも言えないものがある。
2両編成の列車に、中高年の団体が大挙して乗り込む。団体客が車内におさまってから見ると、うまい具合に空きボックスがあったので、座ることができたが、同じような若い個人旅行者には、嫌気してデッキで立っている人もいた。だがいずれにしても、地元の客はほとんど乗っていないのだった。
*
静かになった列車は淡々と進んで、16時19分に東能代に着いた。向かいのホームにも2両編成の普通列車が入ってきた。これは奥羽本線、16時24分発の弘前行きである。このあとの16時40分には特急『つがる5号』があり、それに乗ろうと思っていたが、普通列車でも、弘前に着く時刻は特急の17分後でしかない。普通列車で行くことにして、通学の高校生に交じってロングシートに座った。これは701系という電車で、東北のローカル線なのにロングシートという、旅行者にはまことに評判の悪い車両である。北にも南にも山を背負った、米代川沿いの田園地帯を進む。
鷹ノ巣で20分も停車して、特急『つがる5号』を先に行かせる。高校生は鷹ノ巣で入れ替わるのかと思ったが、意外に東能代から大館あたりまで乗り通している人もいた。だが、大館で高校生が大勢乗っている花輪線の気動車を見送ると、その先の県境越えの区間は通学の流動がないようで、がら空きになった。
18時17分に弘前に着いた。駅の近くで“ラーメン”という赤い提灯を見かけて、食べるか、喫煙可と書いてあるし…と思ってお店に入ったら、メニューにはパスタやピザなどもある。不思議なお店だなあ、と思いながらパスタとビールを頼んで、ふと見回すと、店中が、ももいろクローバーZのポスターやグッズで埋め尽くされていた。モノノフの人がやっているお店らしい。大きな画面に流れるももクロの映像を眺めながら、ピザも食べて、満腹して出た。──香港のミニバスのような小型の路線バスが走る弘前の大通りを歩いて、この日のホテルにたどり着いた。
10/9(水)象潟
酒田駅。いかにも昭和時代の東北地方の拠点駅、といった感じの駅舎だ。
本間美術館から歩いて数分、酒田駅に戻ってきた。わずか2時間ほどの滞在だったが、また北へ向かう。14時41分発の特急『いなほ5号』、秋田行きだ。酒田から北の羽越本線は列車がとても少ない。線路もいつの間にか単線になる。
鳥海山がよく見えてきた。裾野を長く引く、ゆったりしたよい山である。
遊佐。ここのお米を以前によく食べていました
遊佐を過ぎると徐々に庄内平野が尽き、線路は海沿いに追いつめられる。
荒い日本海。そして発電風車が車窓に現れる
*
コンビニのおにぎりを食べながら、30分で象潟駅に着いた。ここはすでに秋田県、にかほ市に属する町だ。駅の前に停車しているバスは、小田急バスのような色だが、羽後交通だ。
象潟(きさかた)は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で訪れた最も北に位置する土地だ。蚶満寺はどっちかしら、と見回すが、特に案内板のようなものはない。国道に出て北へ向かうが、Googleマップのナビに導かれて住宅街に迷い込んだ。
なんだ、結局、国道側から来るのが正解だったのか。──Googleマップのナビでは、一度、寺の裏口に着いてしまい、これはここから入れとは言っていないようだなあ…、などと、彷徨っていたのだった。
“蚶”の字だけが磨滅しているようだが、なぜだろう
「象潟や雨に西施がねぶの花」という句になぞらえて、西施の像がある。
これが旧参道だという。そして山門がある
寺の前には観光客が一組、地元のヴォランティアガイドのような老人に、大きな声で話し込まれていた(帰るときにもまだ話は続いていて、観光客はいいかげんに解放してほしそうな感じが、言葉の端々から聞こえた)。券売所のような窓口には、中に入って声をかけるように、という貼り紙が出ているので、歩み入ってみる。──境内を掃いている女性に声をかけると、その人が受付だということで、300円の拝観料を渡すと、案内ちらしを1枚持ってきてくれた。
寺の堂には上がれないが、鬱蒼とした裏の庭園を見学できる。西行桜などがあるが、見たいのはやはり、この景観である。
ここは、水田が広がる中に、ぼこぼこと小山のような“島”が点在する、奇妙な土地である。この“島”は、もともと鳥海山の噴火でできた流れ山だそうだが、昔は周囲が海(潟湖)で、水面に島が点在する、“九十九島・八十八潟”と呼ばれる景勝地だったという。それが文化年間の地震で土地が隆起して、このような風景になった、というのだから驚く。芭蕉さんが見た景色は、今とはまったく違ったはずなのだ。
蚶満寺を辞するとき、「九十九島を上から見られる場所があります」と教わった。
国道沿いの道の駅に行くと、6階に展望台が設けられていた。なるほど
道の駅には、物産店のほか、入浴施設やカラオケなどがあるようだった。地方に作られるこういう施設、どれだけの意味があるのだろうと思っていた時期もあったが、なるほどこれは外来者のためではなく地域住民のための福利厚生施設なのだということを、最近になってようやく理解できてきた。
九十九島の一つに、登れる“島”がある。
鳥海山を北側から見ると、立ちふさがる暗い壁のように感じられるのが不思議だ。
およそ“島めぐり”などしそうにない人たちのイラストだけど…
*
道の駅の裏手にも、西施の像があった。
こちらの西施は、蚶満寺の西施に比べると、どことなく現代的な美人。(^^
日本海の夕暮れを見ていくことにした。道の駅の近くの公園から、太陽が沈むのを見守った。
飛島の肩に、夕陽が落ちていった。
*
象潟の町は、合併して「にかほ市」だが、TDKの工場があるので知られているいわゆる仁賀保とは、10キロほど離れている。国道沿いに、これは警察署だなと思ったら、建物には「にかほ警察署」の文字が消された跡があり、Googleマップを見ると「由利本荘警察署にかほ幹部交番」と書いてあるが、古い地図には「象潟警察署」となっていた。地方では警察署まで統廃合されてしまうのか、と思いながら、象潟駅まで歩いて戻った。──芭蕉さんは「松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし」という有名な一節を書いたが、これは、そもそも、太平洋側の伊達領の街道沿いにある松島の賑わいに比べると、日本海側の象潟は、国境近くの寂しい村だっただろうから、単にそういう人文地理的な違いから受けた印象を述べたものにすぎないのかもしれないし、今でもそれは変わらずにだいぶ寂しい土地だ、などと思った。
17時47分の列車に乗る。また特急、『いなほ7号』秋田行きである。象潟から乗ったのはぼく一人だけだった。
18時41分に秋田に着いた。駅前は西武百貨店などがあって、“無印良品”や“LOFT”などの看板が見えて、さすがに県都である。この日は昼間にほとんどまともな食事をしなかったので空腹だった。ショッピングビルの中のPRONTOでパスタを食べてから、駅に近いホテルにチェックインした。──この日は、秋田市内や近隣のホテルが軒並み満室になっており、平日に東北の地方都市で宿泊先に困るという事態を想定していなかったので焦ったが、楽天やじゃらんなどには出ていない空室を、いろいろなホテルのサイトを丹念にめぐって探し当てたのが、このホテルだった。この日の秋田はどうやら複数の学会などが重なっていたようだ。翌週には私立恵比寿中学のライヴもあったらしく、地方都市だからと言って油断はできない。
10/9(水)酒田
12時03分の普通列車、酒田行きに乗る。羽越本線は電化区間なのだが、古いタイプの気動車が走っている。電車よりもコストがかからないためこういうことになっているらしいが、4両編成と、地方のローカル列車にしては比較的たっぷりしているので、一両ほぼ独り占めのようになった。
古い気動車の、座席の足元にある、この、謎のでっぱり。足を乗せるか乗せないか、いつも迷う。
庄内平野の車窓。庄内平野の、南にあるのが城下町の鶴岡、北にあるのが河口の商港の酒田だ。
鳥海山が見えてきたが、雲に隠れている。
切り欠き式の頭端ホームに入って、12時39分に酒田に到着。
*
酒田は、東北の日本海側では素通りできない街だ。駆け足で観光しよう。まず駅前からタクシーに乗って、山居倉庫に向かう。ものの5分ほどで着いたが、酒田のタクシーでもSuicaが使えたのには驚いた。時代はどんどん変わっている。
“山居倉庫”とは、河口近くに作られた、庄内米の倉庫で、米の積み出しで大いに繁栄した商港酒田の歴史を物語る建物だ。JR東日本の観光ポスターの印象も強い。観光バスツアーが集まる駐車場でタクシーを降りた。物産店やレストランなどの施設になっており、にぎわっている。
おっと、反対側に出てしまった。いや、川に面したほうが正面なのか。
裏側はけやき並木に守られている。静かなところだ。
*
川を渡って住宅街を少し歩くと、漆喰の白壁が見えた。“本間家旧本邸”である。
なんて立派な門かぶりの松だ
本間家とは幕政時代の酒田の豪商・大地主だが、ただの商人ではなく、藩政とも深いつながりを持っていたようだ。この邸宅は幕府の巡見使を迎えるために明和5年に建てられたものだという。正門は藩主と県知事を迎えるためだけに開かれたというし、地域の首領のような立場の家だったのだろう。部屋数の多さにも感心するが、真ん中に仏間があるのが少し意外だった。
*
その本間家の所蔵品を展示しているのが、酒田駅にほど近いところにある、本間美術館だ。
本館と、庭園の中にある別邸“清遠閣”から成る。ここの所蔵品は目を見張るものだった。南宋の虹天目茶碗や、ぐるぐるとした紋様が珍しい元代の堆黒の盆、皇室が下賜した銀器など…。法隆寺から贈られたという百万塔(百万塔附自心印陀羅尼)には驚いた。法隆寺に援助してそんなものを譲られているというのも驚きだし、そもそもこれ、奈良時代のものだ。国宝級のものじゃないか?
藩政と強いつながりがあった本間家だけに、戊辰戦争とその敗戦は危機だったのではないかと思うが、庄内藩は寛大な処分を受けたということで、藩主の酒井家を始めとして西郷隆盛にすっかり心酔してしまったそうだ。──ここも、大久保利通と西郷隆盛の漢詩の書*1などをもらっていたそうで、展示されている。適当にしっかり押韻しながら漢詩を詠めたのだね、この時代の人は…。
お庭も、すごくいい。
“清遠閣”は梅の花枝を模して彫られた欄間が雅であった。ここでは庭園を見下ろして、主に陶磁器の展示。伊万里、古九谷などに交じって、龍泉窯の青磁の大盤などが並んでいる。海鼠釉という、深い青色に斑点が浮かんでいる清代(宜興窯)の磁器がとても美しかった。──ほかにも、藤原定家の『明月記』の断稿が無造作に(?)展示されていたりして、奥が深すぎる。
10/9(水)羽黒山
翌朝、「エスモールバスターミナル」から、7時50分の路線バス、「羽黒山頂」行きに乗った。市街地を出ると、温泉施設に立ち寄ったりしながら、水田が広がる中をまっすぐ進む。大鳥居が現れると、だんだんと山中の宿坊集落の雰囲気が出てきた。
帰路のバスから撮った大鳥居。
羽黒山は、それほど高い山ではないが、昔の修験道の山で、国宝の五重塔が有名だ。路線バスには、フランス語を話す夫婦なども乗っていた。「羽黒随神門」という停留所で降りると、目の前に赤い山門がある。
山門を入ると参道が下っていくのが、珍しい。
神々を祀る社が立ち並ぶ。日本のこのような信仰の山によくあることだが、神仏習合の独特の信仰の場だったのが、明治の廃仏毀釈のため、神社を名乗ることになり、出羽神社という名前になっている。そもそも神社なのに五重塔があるというのはそういうことで、正直なところ、その信仰の内容は、あまり理解できないが…
滝のすぐ近くまで行くことができる。だが、前夜は雨だったので、間違っても岩に滑ったりしないよう、山歩きは注意しなければならない
*
随神門から10分ほど歩くと、参道の左手の森の中に、五重塔が現れた。
室町時代に創建されたものだという。特別拝観を実施中で、一層目の中に入れるのと、二層の外側から中を覗いて見ることができる。創建当時の心柱が通っているが、江戸時代に一層部分は切り取られているという。
屋根はこけら葺き。木肌はいかにも風雨にさらされたように見えるので、もとは彩色されていたのだろう…などと思いかけたが、そうではなく、最初から白木の塔だったという。森の中の、谷間のようなところに建っているので、湿気で、カビの類が大変なのだそうだ。
*
五重塔を横目に、森閑とした参道は続く。この参道は、羽黒山の山頂にある出羽三山神社の三神合祭殿まで続いている。先ほどの随神門からさらに車道は続いていて、山頂まで路線バスが通じているが、ここは歩いて登ってみようと思っていた。だが…
これは厳しい! ほぼずっとこの調子で登りが続くのだ。
芭蕉塚。
*
この森の中にも、昔は僧坊が建ち並んでいたというのだ。
参道の途中から右手に逸れて、「南谷」という標識が出ていたので、行ってみた。羽黒山を訪れた松尾芭蕉は、「南谷の別院に宿す」と記している。
前夜の雨のぬかるみに足を取られ、沢の流れに靴を洗って、たどり着いたのは、山中に開けた、草生した平地だった。
池は心字池だという。僧坊と庭園があったということだが、今となっては何一つ残っておらず、山に飲み込まれようとしているのだった。
崩れ落ちそうだが…
*
山頂にたどり着いた。汗をかいた身体に、風が冷える。
出羽三山神社の三神合祭殿。合祭殿の隣の建物では、秘仏の公開が行われていた。右から、月山阿弥陀如来、湯殿山大日如来、羽黒山観音菩薩。
こんなに重厚な屋根の鐘楼は、初めて見る。
芭蕉さん。芭蕉さんが訪れた当時の羽黒山は、天台宗の寺院ということになっていたはずだが。
帰りのバスまで時間があったので、「出羽三山歴史博物館」も瞥見した。神事の映像で流れる、うさぎの被り物をした人物とか、烏天狗のように飛び跳ねるような人物などは、珍しい習俗だ、ということ以上の価値がわからないのだけれど…。平安時代や鎌倉時代の、花鳥紋の銅鏡(和鏡)がいくつも並んでいたのが目を引いた。直径10cmほどのものばかりで、合祭殿の前の池(「鏡池」)から出土するのだそうだ。奉納する風習があったらしい。
山頂の駐車場。赤いのが庄内交通の路線バス。──10時55分の路線バスで下山して、11時45分に鶴岡駅前に戻ってきた。まだお昼前である。
10/8(火)鶴岡へ
実は夏休みである。いろいろ考えていたが、東北地方の日本海側でかねてから行きたかったところを廻ることにして、火曜日の午後、ひとまず上野駅に来た。宿泊先は、まあ当日でもなんとかなるだろう。──羽黒山の五重塔、象潟の奇観、白神山地に抱かれた十二湖、などなどが思い浮かぶ。上野駅のみどりの窓口で、「東京都区内ー大宮(経由:新幹線・新潟・白新・羽越・奥羽・新青森・新幹線)」という、東北一周の経路の乗車券を買った。一緒に、新潟乗継ぎで鶴岡までの特急券も買う。
新潟までは上越新幹線でわりと簡単に行けるが、その先の、羽越本線の特急『いなほ』は、2時間に1本程度のはずなので、さすがに時刻表を確認しなければならない。上野駅から14時46分、『とき325号』の自由席に、適当に乗り込んだ。平日の午後の上越新幹線で座れないとは思っていなかったが、案の定、空席だらけだった。──駅弁を食べ終わって、上越の車窓を眺める。赤城山が裾野を広げている。
*
国境のトンネルを抜けて新潟県内に入ると、雨であった。──16時47分に新潟に着いた。新潟駅の新幹線ホームは、隣の同じ高さのところに在来線のホームができて、新幹線と特急『いなほ』が同じホームで乗り換えられるようになっている。だが新幹線と在来線なので、間に改札は設けられている、というのが、便利なのかそうでもないのか、微妙なところである。『いなほ』の自由席も空いていた。
17時15分発の酒田行き、特急『いなほ9号』である。先ほどの新幹線ではE2系の座席の狭苦しさを感じていたが、この特急はわりと新しい車両で、ゆったりしていた。
発車するとすぐに、外は暗くなってしまった。海沿いの風景など、もう見られない。まあそうだろうなとは思っていたが、日の短い季節に旅行していることを改めて思った。
村上の先には、直流電化と交流電化の境界、デッドセクションがあり、車内がしばらく暗くなる。
19時04分に鶴岡に着いて、駅に近いホテルに投宿した。予定のない旅行の一泊目は比較的よいホテルに泊まることにしている。風は強くて肌寒いが、雨は上がっていたので、ぶらぶらと出て、がらんとした駅前の通りで寿司屋を見つけて、適当にカウンター席で飲んだ。ホテルに戻ろうと歩き出したところ、急に激しい風雨が吹き荒れて、ずぶ濡れになってしまった。
「オランジュリー美術館コレクション」@横浜美術館 10/7
月曜日に開館している美術館と言えばここだ。いまは、パリのオランジュリー美術館からいろいろ来る展覧会が、始まったところだ。
■横浜美術館>オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち
目玉はルノワール、『ピアノを弾く少女たち』だ。この絵、意外に、背景もピアノも、塗り残されているような茫洋とした感じで、同じピアノを弾く女性たちの絵としては、もう一枚の『ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル』のほうがしっかり描き込まれている。女の子の表情もあまりうまく描けているとは思えない。だがその茫洋さが、揺らめくような、まぶしくて見えないような(?)、そういう世界になってしまっているのがすごい。
(写真は過去にオランジュリー美術館で撮ったもの)
ルノワールで、よかったのは、『花束』という小さな絵。暗めの青い背景の前に、緑の円い花瓶に活けられて、赤いポピーのような花が、浮き上がって見えるようだった。
*
シスレーとモネ。(同上)
リアルに描こうとしてどうもおかしくなっちゃうアンリ・ルソーさんは、相変わらず(笑)。マティスの絵もいくつかあったが、マティスにしてはわりと色彩が控えめなものが中心だったと思う。──ピカソの絵は、新古典主義時代の作品が目を引いた。がっしりとした、異様なほどの量感を持った女性の姿は、何かの神像のようだし、またそれを大きなサイズで描くから余計に何か神々しい。
アンドレ・ドランという画家がとても気になった。美しくない裸の皮膚のしわ、たるみや影を描くが、透明な少女の瞳や、みずみずしい葡萄の粒、黒い闇に浮かぶ花束の絵など…、何か透徹した視覚を感じる。
だが、この、全然楽しくなさそうなアルルカンとピエロの絵は、よくわからない(同上)
シャイム・スーティンという画家にも魅かれた。赤や黄色の絵の具を塗りたくって肉塊を描く。人物は細長く極端にデフォルメされている。こうなるとベーコンまであと一歩である(?)。風景を描けば曲がりくねっている。だが家はまっすぐに描いているので、ちゃんと戦略的に描いているのだとわかる。
*
そのあと、横浜美術館はコレクション展も一巡した。
藤田嗣治の猫
長谷川潔の銅版画。
マティス『顔をかたむけたナディア』
篠原有司男『ラブリー・ラブリー・アメリカ(ドリンク・モア)』
郷土資料的な意味もあるのか、開港当時の横浜の絵図がいくつも。このあたり、旧居留地と元町、いま高速道路と根岸線の高架が覆いかぶさってるあたりだなあ。
この夕景の光の描き方がいいよね
川瀬巴水の『東京二十景 芝増上寺』。これすごく好きです。木版画なので、たしか町田の美術館でも目にしたことがありますが
樋口五葉『髪梳ける女』。これは先日の町田でも見たし、ここも所蔵しているのね。