night and sundial

じゃわじゃわ日記 -the 5th defection-

Twitterを凍結された話

 突然だった。4月21日(金曜日)の夜、Twitterのアカウントが凍結された。異議申立てをしたが返信はなく、凍結の理由は示されない。

 昨今のAPI規制の流れで、Twilogがツイートを取得できなくなったのが2023年4月5日だった。ぼくはTwitterを、2009年7月から使ってきて、気づけば、自分のライフログとしての機能を、TwitterTwilogに大きく依存してきた。Twilogに記録された自分のツイートがあるからこそ、「あのとき何があったか」を思い出せるのだ(思えばいろんなことがあった)。もちろんすべてのことをTwitterに書いて公開していたわけではないにせよ、「そのとき書いたこと」があるからこそ、「そのとき書かなかったこと」も浮かび上がってくる。Twilogがなければ、ぼくのこの14年間は記憶の泥沼に沈んでいるだろう。

 Twilog自体の消滅の可能性も見越して、あわててTwitterに自分のツイート全件のログをダウンロードリクエストを出して、JSON形式のそれ(2023年4月6日時点で59,960件(リツイート含む)だった)を、Excel VBAを組んで加工したりしていた。Twilogに代わる、ツイートをタンキングする仕組みを作らなくちゃなあ、と考えていた矢先に、ほかでもないTwitter自体を奪われることになるとは、まったく考えていなかった。

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 はからずも、「自分にとって、Twitterとは何だったのか」を、考えることになった。そんなことを考えさせられるのにはうんざりなのだけれど、それはともかく、Twitterを通して自分が得ていたものは、大きく分けると次の3つだったと思う。

(1) Twitter(だけ)を通してやりとりしていた方々とのつながり。

(2) 自分のライフログ機能。何年何月何日、何時何分何秒に、自分がどこにいて、何をしていたか、何を感じていたか。それをストックして、後から振り返られること。これはTwilogという存在がなければ機能しないものだったと言える。

(3) 世の中のニュース、カルチャーや、ニッチな情報、すべてへの入口。積極的に求めなくても目の前にフローとして情報が存在する、これはやはりすごい仕組みだった。

 ──ぼくにとってはやはり、なくてはならないものだったんだなあ、と改めて思う。

 この3つのうち、(1)は、もう、失うしかないのだろうと思う。とても残念だけれど。(3)については、代わるものを見つけなければならないなあ、どうあっても。だが、Twitterに匹敵するプラットフォームって結局のところ今はまだないと言わざるを得ないのでは。とくに非常時にはとてつもなく有用だった。次に大災害が起きたとき、そのとき自分はTwitterのない時代を生きなければならないのだな、と考えてしまう。

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 さしあたって、(2)が問題だ。そんなの、自分で日記帳でも書いてればいい話だが、そういうモンダイじゃないんだよね。

 TwitterTwilogによる、自分のライフログ機能。これの代替をどうするか?について、いろいろ考えていたが、ライフログという角度から自分にとって必要な機能は、具体的には以下のようなものだと思った。

  • 年・月・日・時・分・秒つきの短文を、
  • スマートフォンとPCで共有して投稿でき、
  • 保存し、
  • それが、後から検索しやすい形であること。

 短文をその都度、ブログにpostしてしまうという手もあり、おそらくそれが最も手っ取り早い方法なのだけど、1投稿が1記事になるのがどうにも煩雑だ。ブログというのはそういう風に使うものではないよなあ。スマートフォンのメモアプリでは、PCとの共有が手間だ。LINEの「Keepメモ」(自分との自問自答みたいなやつ)は、テキストで取得できるが、時刻が時・分までしか表示されないのが惜しいし、PC版アプリではアクセスできない?。インターネット上のマイクロブログは、他にも、新しいものから伝統的なものまでいろいろあり、mixiボイスなんていう懐かしいものがあるのも思い出したし、Instagramってどうやればテキストだけ投稿できるの?とか、雰囲気がなじめず敬遠してきたがFacebookだってある。だが、どれも、後からの利用のしやすさに難がある、またはわからない。MastodonとかTumblrとかを、今そのために使うのも、ねえ(結局、覇権がないサーヴィスを、今使うことに、自分が価値を見出せるか、という問題でもある)。可用性という点からはやはりTwilogは偉大な存在だった。──俺はTwitterがほしかったわけじゃない、TwilogのあるTwitterがほしかったのだ。

 続く。