大徳寺の西側に出ると千本通に突き当たり、その向こう側に佛教大学がある。この日は卒業式らしく、朝の市バスでも晴れ着を着た女性が見えたし、大学の正門の前で記念写真を撮り合ったりしている。ちょうどお昼ごろで、佛教大学前の天下一品でこってりを食べてから、千本通をぶらぶらと南に歩いて行った。
千本ゑんま堂という濃厚な地場信仰の場を瞥見したりしながら、千本通を歩く。雁木に沿って個人商店やスーパーがあったりするようすを眺めながら、入り組んだ町家の間の道に入っていくと、行き止まりになったりして迷いながら、大報恩寺にたどり着いた。
“千本釈迦堂”として知られる。1227年に建てられた本堂がそのままの姿でここにある、京洛最古の木造建築だという。応仁の乱でも焼けなかったというのだからすごい。
背後の“霊宝館”は、訪れる人もおらず空気が沈殿した宝物殿であったが、以前に東京の国立博物館に巡回展があった、定慶の六観音像や快慶の十大弟子像が並んでいた。定慶の聖観音像が、均整の取れた美しい像で、見とれてしまう。──ぼくは大報恩寺という名前をこの展示のときに知った。
2018年の東京国立博物館『京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』で撮影した聖観音像。
ここは“おかめ”の伝説が残る寺でもあり、おかめ人形が一面に奉納された部屋などもあったが、ちょっと異様である。
この枝垂桜が満開になったらさぞきれいだろう
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そして北野白梅町の嵐電の乗り場の前に出た。スーパーの上の階の喫茶店で休憩してから、また歩いて、等持院へ向かう。
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等持院は足利将軍家の菩提寺である。足利十五代の木像があることで有名で、以前に九州国立博物館の『特別展 室町将軍』で展示されていたが、行ってみると改修中で、見られるのはお庭だけだった。しかし庭園だけだとしても、ここのお庭は夢窓国師の庭園だし、足利尊氏の墓がここにあるという。
方丈で働く職人さんたちの声と、濃い新しい木のにおいを背中に、庭を一巡した。奥行きのあるゆったりとした、よいお庭である。北側には木立の向こうに新しい建物が見えていて、立命館大学の衣笠キャンパスだが、それができるまでは、北山の山並みを借景にしたお庭だったという。
尊氏の墓がどこにあるのだ、と気づかないまま一回りしていた。訝しみながらもう一周歩いて、生け垣に隠されるように、古い宝篋印塔がひっそりと置かれていることに気が付いた。
延文三戊戌年、四月廿九日…だろうか。等持院殿贈太相国一品仁山大居士、とある。延文とは北朝年号で、1358年にあたる
征夷大将軍にしてはひっそりとした、地味な墓所である。──ぼくは以前から足利尊氏という人にはなぜか興味をひかれるところがある。エリート軍事貴族として郎党を率いて戦争に明け暮れ、肉親と殺しあうような、苛烈な生涯を送りながら、この世は夢のごとくに候、か何か言いながら仏の絵を描いていたという、不思議な人物だ。夢窓国師は、親しかった将軍の墓を、明るくゆったりとした庭園の中に、隠すように作った。それは尊氏自身の望みだったのかもしれない、などと想像した。もちろん、この寺院も庭園も墓石も、14世紀そのままの姿ではないのだろう。だが、六百年以上の時間が過ぎて今、静かな庭がここにあることに、何かしら胸を打たれるものがあった。