ありゃ。地方の普通列車はワンマン運転なので乗り降りに時間がかかって、しばしば遅れる印象がある。
長崎本線の普通列車鳥栖行き。吉野ヶ里公園駅というのがあるのでそこで下りればいいと思っていたが、神埼で特急列車の通過待ちをしている間に、地図をよく見ると、吉野ヶ里歴史公園は神埼駅と吉野ヶ里公園駅の間にあるということに気づき、神埼駅から歩くことにした。
神埼駅で停車中の415系普通列車。車体側面の水色の帯の剥がれぶりが痛々しい。JR九州も苦しいのだろうが…。特急『かもめ』が猛然と通過して行った。
また茫洋とした田んぼの中を歩く。雨は上がっていたが、ものすごい湿気だ。
吉野ヶ里歴史公園のゲートにたどり着いた。係員のおばさんが園内地図を丁寧に説明してくれた。
吉野ヶ里遺跡は、発掘が始まったのは昭和の末期だそうだが、平成の初頭に、大規模な集落の発見として報道された。ちょうどぼくが小学生の頃で、ここが邪馬台国だとまで言われていたところだ。その後、邪馬台国だとはあまり言われなくなったという印象があるものの、ずっと来てみたかったところだった。
なので、勇んで歩き出したのだが、しかし、なんだかこれまたぼんやりした公園だな…
おや?
なるほど、環濠集落なのか
この時代から養蚕ってされていたの?
ただ、この竪穴式住居、電気が来てるんです(笑/中で休憩してもいいですよという場所です)
ムラの偉い人の家には武具が。
少し時代が下った集落を再現しているところ。
展示館では、いくつもの甕棺や、首から上がない人骨などに圧倒されたが、そういうものにまじって、弥生時代のものとされる「石硯」(と思われる平らな石)が展示されていた。日本列島で文字がいつから使われていたか、というテーマは、最近、熱くなってきていますよね
そして、弥生時代後期になると、幾重にも柵に囲われて、こんな楼閣があったという…
鳥のモチーフ
周辺の豪族を従える、吉野ヶ里の王
祭祀をつかさどる女性シャーマン
復元建築は無彩色だが、さすがに丹などは塗られていたのではないかなあ、なんて空想する。──たしかに、ここまで来ると、“国”と呼んで差し支えなさそうではあるけれど、だが、逆に、こういうものがいくつか建ち並んで、王様のような人がいたとしても、その程度で、大陸から使者を迎えられただろうか、などとも思う。ぼくは個人的には、邪馬台国は九州にあったと解釈するのが最も適切だと考えているのだけれど、なんにせよ、決め手はないわけだ。“親魏倭王”の金印がどこかから出てくれば決定打になるのだろうけれど…。
甕棺とはこういうふうに埋葬されていたそうだ
「北墳丘墓」。この内部は、発掘された状態が保存展示されている。
この様子にはちょっと感動した。なにせ、本物なのだ。
時折雨に降られながら弥生時代を歩き回った。そろそろ現代に戻る。
*
吉野ヶ里公園駅。この駅、名前からして、新しい駅なのかなと思っていたが、駅自体は2面3線の古めのホームで、もともとは三田川駅と言ったらしい。ここからはもはや、東京に帰るのみである。13時15分の普通列車に乗った。
鳥栖。古めかしいジャンクション駅だ。ここで区間快速福間行きに乗り換え。
博多駅に戻ってきたのは14時過ぎだった。帰る前に、食べて行きたいものが…
牧のうどん(o・∇・o)
博多バスターミナルの地下のこの店舗、麻倉ももさんのサインがかけてあります
そして、お土産の「博多通りもん」と、駅弁とビールを買って、15時10分の山陽新幹線『のぞみ42号』に乗り込んだ。この日も歩き回ってだいぶ汗をかいていたので、発車してすぐにトイレで着替えた。行きたいところに行けてよかったけれど、真夏の旅行は厳しい。──19時55分に新横浜に到着。地元まで帰ってきたらちょうど猛烈な豪雨に降られ、旅行の最後の最後にずぶ濡れになった。