night and sundial

じゃわじゃわ日記 -the 5th defection-

8/18(日)水城

 翌朝の博多は、曇っていて多少は過ごしやすかった。街路樹からはクマゼミの大合唱が聞こえて、関東から来ると風土の違いを感じる。──ホテルから歩いて博多駅に向かい、9時04分発の普通列車鳥栖行きに乗り込んだ。休日の下り列車で、適度に空いている。

 実はこの日はどこに行くか、必ずしも決めていなかった。行きたい場所は何か所かあるけれど、どういう順番で行くのがよいのか考えあぐねている。翌日の月曜日までの旅行にすることは決めていたので、どこかには泊まるはずだが、それがどこかもわからない。

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 行き先不明の中、下りたのはこの駅。

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 …なな、と続けたくなる

 水城(みずき)とは、飛鳥時代に、白村江で唐と新羅の連合軍に壊滅的な敗戦を喫した天智天皇が、さらに大陸から侵攻されるという恐怖におびえ、大宰府の防衛のために建設した、土塁と堀である。──列車から降りて、まず驚いた。線路の行く手に、緑の森の壁があって、それを切通しで貫いて線路と県道が通っているのだ。

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 眼前に見たのは初めてだ。

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 水城の切通しを進む鹿児島本線の列車。

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 急斜面。なるほどこれは人工的な斜面なのか

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 古代官道と西門が通っていたとされる口で水城を越えたが、ただの地元の山道のようであった。土塁の反対側に出た。いまでも水が溜まっている

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 おや、かわせみが…

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 土塁に沿って歩いてみるが、線路に突き当たるため、そのままたどることはできない。住宅街を抜けて踏切を渡り、線路の反対側に向かってみた。

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 土塁の上はこんな状態。ちなみにこの下には自動車教習所があるのだが、教習所の敷地の中に民家があって、水城の土塁に沿った道とつながっている、という、不思議な状態になっていた。

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 土塁が途切れてしまった。川沿いに水田が広がり、西鉄の線路と九州自動車道の高架が平野を貫いている。地図を見ると国道3号も通っていて、その向こうにまた水城の遺跡が残っているようだが、往時はつながっていたのだろうか? でも川があるからなあ…

 JR水城駅近くの切通しは、鉄道建設のために近代に切り取られた場所だそうだが、2014年に土塁の断面の発掘調査が行われたそうだ。版築工法に加えて、敷粗朶(しきそだ)と呼ばれる、要するに木の枝葉をそのままぶちこむ工法のようすが出土したそうで、説明パネルによると以下のごとくである。

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 緑の葉が出土して、1350年ぶりに空気に触れた瞬間に黒くなってしまったというのだ。…歴史のロマンじゃないか!

 水城は、土塁だけではなく、内側と外側の堀と、土塁の下に樋を設置して水を通すような機構も備えたものだったようだが、よくわからない部分も多いようだ。また水城だけではなく、近隣の山の上に造られた大野城や基肄城もあわせて、大宰府防衛ラインを形成していたそうで、それらを、ものの1~2年で建設してしまったのだから、大変な事業であったものと思われる。ぼくもこの土塁を間近に見て、規模の大きさに驚いたし、当時の国家的な危機感のようなものが、少しは理解できたような気がする。