night and sundial

じゃわじゃわ日記 -the 5th defection-

8/18(日)大宰府、失われた都

 九州自動車道をくぐり、川沿いに歩く。──このあたりは大野城市太宰府市の境に近いところで、住宅地なのだが、ちょうど航空路の下にあたっているようで、ジェット旅客機がほとんど数分おきに上空を飛び、轟音が響く。ちょっとこれはつらいのではないか、とすら思ってしまった。

f:id:jawa_jawa:20190908011200j:plain
 水城駅の近くから40分ほど歩いて、大宰府政庁跡に着いた。

f:id:jawa_jawa:20190908011206j:plain
 「失われた都」です

f:id:jawa_jawa:20190914233358j:plain

f:id:jawa_jawa:20190908011235j:plain
 復元された礎石が並ぶばかりであるし、この“都督府古址”という石碑も明治時代に建てられたものにすぎないけれど。

f:id:jawa_jawa:20190908011211j:plain

f:id:jawa_jawa:20190908011216j:plain

f:id:jawa_jawa:20190908011223j:plain
 大宰府展示館も見学。

f:id:jawa_jawa:20190914230226j:plain
 梅花の宴の食品サンプルですって…

f:id:jawa_jawa:20190908011412j:plain
 “買地券”というのは初めて聞いた。説明によると、墓地を購入したことを証明する文書のことで、漢代などの古代中国の風習だという。日本での出土例は珍しいそうだ。

f:id:jawa_jawa:20190914230220j:plain
 だが、ここから南に条坊の都が広がっていたというのは、本当だろうか、とちょっと思ってしまう。そもそも政庁跡が、両側を丘にはさまれていて、正直言ってあまりそれっぽくない立地なのだ。

*

 政庁に加え、学校院という官僚養成施設、観世音寺という官寺などを備えた、九州の首都であった大宰府である。だがそれも夢のあとで、学校院跡などは一面の水田であったが、観世音寺は細々とした伽藍が残っている。──寄ろうとしたら、「玄昉の墓」という立札が。

f:id:jawa_jawa:20190908011254j:plain
 ああ、玄昉は大宰府に左遷されて死んだのか、と思い至る。しかしこれが、民家のすぐ横にあって、こんなところに歴史的人物の墓が。

f:id:jawa_jawa:20190908011300j:plain
 観世音寺。いまあるのは江戸時代初期に再建されたものだそうだが、律令時代は、東大寺・下野薬師寺と並んで「天下三戒壇」、僧侶が受戒できる場所として全国に三か所だけの、格式ある寺院とされていたそうだ。…というか、そういう制度があったことを初めて知る。東大寺はわかるが、もう一つが下野にあるのか。

f:id:jawa_jawa:20190908011307j:plain
 宝蔵では、高さ5mにもおよぶ平安時代馬頭観音像や観世音菩薩像などの、巨大な仏像が林立していて、見ごたえがあった。

 今年は3月に多賀城跡に行ったが、これで、陸奥と筑紫の、二つの“遠の朝廷(みかど)”に行ったことになるなあ。