九州自動車道をくぐり、川沿いに歩く。──このあたりは大野城市と太宰府市の境に近いところで、住宅地なのだが、ちょうど航空路の下にあたっているようで、ジェット旅客機がほとんど数分おきに上空を飛び、轟音が響く。ちょっとこれはつらいのではないか、とすら思ってしまった。
水城駅の近くから40分ほど歩いて、大宰府政庁跡に着いた。
「失われた都」です
復元された礎石が並ぶばかりであるし、この“都督府古址”という石碑も明治時代に建てられたものにすぎないけれど。
大宰府展示館も見学。
梅花の宴の食品サンプルですって…
“買地券”というのは初めて聞いた。説明によると、墓地を購入したことを証明する文書のことで、漢代などの古代中国の風習だという。日本での出土例は珍しいそうだ。
だが、ここから南に条坊の都が広がっていたというのは、本当だろうか、とちょっと思ってしまう。そもそも政庁跡が、両側を丘にはさまれていて、正直言ってあまりそれっぽくない立地なのだ。
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政庁に加え、学校院という官僚養成施設、観世音寺という官寺などを備えた、九州の首都であった大宰府である。だがそれも夢のあとで、学校院跡などは一面の水田であったが、観世音寺は細々とした伽藍が残っている。──寄ろうとしたら、「玄昉の墓」という立札が。
ああ、玄昉は大宰府に左遷されて死んだのか、と思い至る。しかしこれが、民家のすぐ横にあって、こんなところに歴史的人物の墓が。
観世音寺。いまあるのは江戸時代初期に再建されたものだそうだが、律令時代は、東大寺・下野薬師寺と並んで「天下三戒壇」、僧侶が受戒できる場所として全国に三か所だけの、格式ある寺院とされていたそうだ。…というか、そういう制度があったことを初めて知る。東大寺はわかるが、もう一つが下野にあるのか。