玉器にも見惚れる。
唐朝の玉の簪ですって!
*
七宝。これなんか指先くらいの大きさしかないんですよ
*
これは民国時代の「碧玉屏風」。汪精衛が昭和天皇に贈り、日本の敗戦後に返還された、という説明が、中国語と英語で書いてある。いわゆる“汪兆銘政権”と、いまにつながる国民政府の、連続性やいかに…などと一瞬考えてしまったけれど、それを日本人であるぼくが言うのは、野暮というものだろう。
謎の技術、象牙多層球。いったいどうなっているのだ、これは
*
書画のコーナーは撮影禁止のものが多いのだけれど、夏珪の『渓山清遠』など、とてもよい水墨山水絵巻だった。
字面に目が吸い寄せられたのは否めないのだけれど(?)、これは見事。情景が目に浮かぶ。全文は「籠庭水樹宜涼影 匝砌煙花帶露姿」だそうだ。
乾隆18年に郎世寧が描いた、“知時草”の絵画だそうだ。清朝の宮廷につかえた幻のイタリア人、ジュゼッペ・カスティリオーネである。
これはレプリカを撮影したものだが、元代の趙孟頫の『鵲華秋色図』である。──長年にわたって受け継がれてきたこういった書画は、余白を埋め尽くすように、幾人もの皇帝が、これでもかというほどに賛を書き加え、収蔵印が捺されている。目につく収蔵印は、『太上皇帝之寶』、『乾隆御覧之寶』、『嘉慶御覧之寶』などなど…。『宣統御覧之寶』を見つけたときは、おお、と思った。乾隆帝は、賛を書き印を捺すのに飽きたらず、この『鵲華秋色図』には、”鵲 華 秋 色”と、見出し(?)を大書してしまっている。乾隆御筆、と来たものだ。
乾隆帝の御筆と言えば、王羲之の『快雪時晴帖』に“神”と書き加えてしまったのが有名だが、あれは陳列されていなかったものの、王羲之は『平安何如奉橘三帖』が出ていた。これもレプリカを撮影。
『乾隆御覧之寶』の収蔵印は、売店でシールを売っていた。(買った^^)
こういう文人の書斎、よいなあ。
*
孫中山先生の像にごあいさつ
有名な、國立故宮博物院のコインロッカー。
別館のレストランで食事したりしながら、結局、16時半頃まで故宮博物院にいた。大満足であった。──午前中に押し寄せる団体客の大群と、午後にやって来る団体客の波は、すさまじいものがあったが、その間のお昼頃には、奇妙な静けさの中で見物できる瞬間があったりもした。
*
ショップの紙袋を下げて、博物院を辞す。──正門の前の路線バス乗り場でしばらく待っていると、”小18”という番号の路線バスが来て、捷運士林站を通るようだったので乗り込む。博物院の前からバスに乗った観光客には日本人の老夫婦がいたが、車内のアナウンスを聞きながら「いま士林て言ったかなあ」という感じで心もとない様子だったので、下りるとき、「士林駅ですよ」と注意喚起する。──捷運士林站でバスから降りて、メトロ淡水線の高架を目指して繁華な中正路を歩いていると、雨が降ってきた。士林夜市に寄ってみようかとも思っていたが、疲れてもいるし、いったんホテルに戻ることにした。メトロを乗り継いで松江南京へ。夕方で、近くの高校から下校する生徒の群れにもみくちゃになったりしながら、ホテルに帰った。
部屋に戻ったら、デスクに日の丸が。ホスピタリティ? 朝には日本語情報誌のようなものも差し込んでくれたし、悪い気はしない。
*
この日は、雨も上がったのでまた改めてホテルを出て、メトロで松山(ソンシャン)に行き、饒河街夜市を見物。──鶏肉飯を食べて、湯圓を食べて、さらに豆花も。
松山慈祐宮。夜市の入口近くにそびえる巨大な道教寺院だ。──神像の前で人々が熱心に祈っているが、ときおり、木のようなものを石の床に落とす音が聞こえる。
祈りながら、ときどき、この丸っこい赤い木ぎれを床に落として、何かを占っているらしい。
松山からの帰りは路線バスで。
南京東路は、中央にバスレーンが設定され、停留所も、そのバスレーンの中に、島のようにホームが作られていて、まるでBRTだ。南京建國路口で下りると、地下鉄の駅よりも、ホテルに近いところに着いた。