night and sundial

じゃわじゃわ日記 -the 5th defection-

コロナ事変の日々

▼ぼくが最後に店頭でマスクを見たのは、1月の末のことだ。それ以来、3月の旅行中に偶然見かけた5枚パックのマスクを除いて、一度も見ていない。

f:id:jawa_jawa:20200426222938j:plain

▼最初にニュースに登り始めたのは1月の上旬だっただろうか。中国の武漢が閉鎖されたのは1月23日だった。大陸の真ん中にある交通の要衝、人口一千万の巨大都市を、閉鎖するなんて、そんなことができるのか? と思ったし(だが彼らは大きな犠牲を払ってそれをやり切ったのだ)、“封城”という新しい(?)中国語単語の印象も興味深かった。一方で、春節を控えた中国で大規模に人の動きを止めるなんて半信半疑だったし、東京にも、中国人観光客はもとから多いが、さらに増えていることがすでに感じられていた。春節の民族大移動を本当に止めているらしいと聞いて、中国政府が本気で危機感を持っているのだと思った。湖北省の在留邦人を迎えに行く日本政府のチャーター機が羽田から飛んだのは1月28日だった。

▼これは時間の問題だろうと思った。いま中国と日本の間の人の動きは、自分の親の世代とは比べ物にならないほど多い。それは互いの国の仕事がすでに深く結び付いているということだ。モノの貿易はもちろん、ぼくの仕事の現場にも、短期やある程度長い間、中国から来ている人は、以前もいまもいる。人の往来を制限することなんかできない。

▼…と思っていた。ただ、それが“時間の問題”であるとして、時間がたったときに何が起きるのか、想像できなかった。

*

▼クルーズ客船が横浜港に停泊したまま集団感染が起こっているという話、日に日に増える感染者数に薄気味悪いものを感じていたのが2月の上旬だ。インフルエンザみたいなものじゃないのか、子供の学校じゃあるまいしそんなに爆発的に増えることってあるのか、豪華客船なんて不衛生な環境でもないだろうし、わけがわからない、と思った。

▼その後、国内でも人から人への感染が起きている、症状がない感染者であっても感染を広げている、飛沫感染だけではなく空気感染も疑われる(空気感染は今でも証明はされていない)、などという話に至っては、これは困ったことになった。普通に“熱があれば休みましょう”ってレヴェルじゃないってことじゃないか?

▼職場関連のビルの在勤者に感染者が出たことがニュースになったのは2月14日だった。このときは通勤経路まで報道されていた。他の土地でも、感染した人の、勤務先から休みの日に出かけた先からなにから、報道されるようになった。ひどい話だ。

▼世間のボルテージが上がってきた。しかし、満員電車に乗って毎日往復通勤している立場からすると、まったくぴんと来なかった。大げさに騒ぎすぎだろう、と思っていた。このときはまだ。

*

▼つまりぼくは、このときに及んでもまだ、これから来る事態を正しく予想することができていなかったのだ。2月の下旬には東北地方に旅行して家族に会っていた。「どう、東京は、コロナってる?」──まさか、日本で“不要不急の旅行は禁止”なんてことになるはずがないよ。

▼3月には京都にも行った。海外からの旅行者がいなくなった静かな京都に行きたかったのだ。

▼ただ、2月末に予定があったライヴは、開催されたとしても自分は行かないだろう、とは一週間前くらいには決めていた。これも中止になった。

▼2月の末から各地の博物館・美術館が休館になったのは悲しかったし、学校、図書館、文教行政は、この国では“不要不急”なのか、そんな話があるか、と憤った。職場では「子供をどうする」という会話があちこちでされていた。

f:id:jawa_jawa:20200426222947j:plain

▼3月から取引先の出勤抑制、往訪や対面打ち合わせの原則禁止などで、仕事にも支障が出てくるようになってきた。

▼そのうちに欧州と米国の感染爆発のニュースが流れてきた。先の日付のイヴェントも次々と中止になっていく。オリンピックまで中止になった。まあそりゃそうだよね…。

ゴールデンウィークのLFJが中止になったのは3月27日。週末は“外出自粛”だという。自室でふてくされて過ごす。

▼外出自粛だと言われることに、むしろ戸惑いがあった。そもそも、自分が“無症状の感染者”だと仮定したときに、家にいると、家族にうつす可能性が高くなるのではないか? むしろ自分は仕事やなにかで日中は外に出たほうがよいのではないか? と悩んだ。

*

▼マスクについて言えば、ウイルスの防御に市販のマスクは効果がないとぼくは理解していて、相変わらず着けていなかった。どうしたって眼鏡が曇るし、息苦しい。口の前に布を常に置くことによって不衛生になり、かえって他のいろいろな細菌などへの感染の危険が増すのではとも考えていて、ぼくがマスクを着けるのは、そのことが社会的に求められる場面(そういう場面がすでに現出していた)に限られていた。

▼実際の問題として従来のような使い捨てマスクが一般に流通していないので、以前に購入したまま自宅に抱えている最後の1箱には手をつけず、1枚を複数日使い回すようになった。(今では石鹸で手洗いしている。)

▼思い返してみると、衝撃が大きかったのは、3月30日に亡くなった有名コメディアンのニュースだった。彼の既往症がどんなものであったにせよ、高齢者がそれこそコロリと亡くなってしまうという事実は、衝撃的だった。あのコメディアンその人や彼のテレビ番組にはなんらの思い出もないが、正直なところ、本当に怖くなったのはここからだった。この日からぼくも外出中はマスクをつけ始めた。

*

▼4月に至ると、仕事上でかかわりのあるあちこちから、在勤者に感染者がいた、という話が聞こえてくるようになった。もはやいちいちフロア閉鎖などはされなくなったようだ。

▼“緊急事態宣言”を待ち望む自分に気づいた。政府が強権をふるうことを待っている自分がいた。すでに学生が動かなくなったことで通勤ラッシュは多少は緩和されていたにせよ、仕事がある以上、人混みへ出ることは避けられない。政府が介入して経済活動を規制し必要な対策をとらなければならないが、しかし、政府がそれをするのを待つ・求めるというのは、それはそれで、民主主義社会の市民としてあるべき態度ではないとも思う。主権者は我々であるから、我々が社会のために必要なことを自ら判断して実行しなければならず、そのために必要な対策や困窮する人の救済は、我々が作った調整機関であるところの政府を通じて、行わなければならない、というのが、筋だと思うのだが…。

▼いわゆる“アベノマスク”は、語り継がれるだろう。あの発表があったとき、右も左も世論は見事に怒り一色に染まった。実際問題として市中に流通していないどころか、医療機関にも滞っているというものを、どうにかするだけの国力が、この国には、もう、ないのだ、この国は貧しい国なのだ、この戦には負ける、と思った。何をどう考えた政策だったかに関わらず、あれはそういう強烈な負のメッセージになった。

▼4月7日に“緊急事態宣言”が出たが、それですぐにぼくの生活が直接何か変わるわけではなかった。

▼だが、徐々に在宅勤務(いわゆる“テレワーク”)が始まった。勤務先の機材に加えて自宅の通信環境も、結果的になんとかなったのは幸いだった。だが、すべての仕事をリモートですることはできないので、どうしても出なくちゃいけない日は出る、というような動きになり、かといって出る日を職場単位で上司から統制されているようなそうでもないような、曖昧な感じだが、この曖昧さは、守っていきたいところだ…。(新入社員とかは別だろうけれど。それにしても、これから、新人教育とかはどうしていけばいいのだろう。)

f:id:jawa_jawa:20200426222955j:plain

▼在宅勤務の日は、一日中自室に幽閉されているような、居心地の悪さを感じる。一方で、「集中できて良い」という人もいるようで、向き不向きはあるようだ。在宅で残業というのは基本的になし、ということになっているので、“退勤”と同時に家を飛び出してスーパーに買い物に行ったりもしていた。一日一度くらい外に出ないと頭がおかしくなる。

▼しかし、テレワークができるだのできないだのと騒いでいるのも、今のうちかもしれない。そのうち、在宅でする仕事もなくなって、大波に飲まれる日が来るかもしれない、という危機感がある。同業他社からはすでに一時帰休という話も聞こえてきている。

▼かと言って、都心の職場に出勤するのも、この状況では、気が進まない。地元の管内の路線バスは、4月24日から“平日も土曜ダイヤ”ということになり、大幅な減便になった。だが、ぼくの体感的には、だいたい“緊急事態宣言”が出た頃を境に、通勤時間帯の人出はそれほど減らなくなった。今がボトムなのではないかと感じている。首都圏三千万の都市機能と全国に通じるインフラを維持するために(ぼく自身もどこかでその一翼を担っている)、通勤しなければならない人が、このくらいいるということなのだろう、と思う。──息をひそめながら、毎日のニュースの感染者数の数字を、睨んでいる。