night and sundial

じゃわじゃわ日記 -the 5th defection-

オペラ『トゥーランドット』@東京文化会館 7/13

 オペラ『トゥーランドット』を見に行った。オペラを見に行くのは実は初めてだが、『トゥーランドット』はぼくが唯一、あらすじと音楽を知っているオペラである。前から一度見てみたかったので、東京で上演があると知り、大枚をはたいて、S席のチケットを購入していた。

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 上野の東京文化会館、ここの大ホールに来るのはだいぶひさしぶりだ。学生時代以来かもしれない。開演前からビールを飲んで一服。

オペラ夏の祭典2019-20 Japan⇔Tokyo⇔Worldトゥーランドット

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 この『トゥーランドット』、問題演出だと話題になったようだ。たしかに、このオペラと聞いて一般的にイメージする、西洋人が空想した華麗かつ間違った東洋、の演出では、まったくなかった。──白衣の二人…大人の女性と、子供のような女性…が、同じく白衣の男に、禍々しく誘われて捕まえられる、謎の無言のシーンから始まり、オーケストラのイントロダクションが響き渡る。このシーンについてはあとから理解できる。

 そびえ立つ階段状のセット(インドの階段井戸を思わせる)に両側と奥を囲まれて、どの時代のどの国の人々ともつかない、ボロをまとった群衆が、黒人の兵士に打ちすえられている。どうして兵士が民衆を虐待し続けているのか、脈絡はない(黒人と見えた兵士は、日本人が特殊メイクで演じていたようだ)。階段状のセットにしずしずと白衣の少年合唱団が現れたときは身震いした。ピン・ポン・パンは酒瓶を持ったごろつきである。──これは『トゥーランドット』が描く東洋の帝都・北京なんかじゃない、幻想SF世界だ。そして、そこを支配しているのは、天井から下りてくる巨大セットから現れる、白い衣装に身を包んだサディスティックな皇姫、トゥーランドットである。姫が、言い寄ってくる世界中の王子に、難題を出してはそれが解けないからといって殺し続けているのは、言うまでもない。ペルシャの王子の首が切られる場面に居合わせたカラフは、姫を一目見て、なぜか執着してしまい、リューと父親の制止を振り切って、結婚の挑戦申し込みの銅鑼を三回、鳴らしてしまう。

 第二幕では、ピン・ポン・パンは労務者風であるが、その後ろでは全身防護服にガスマスクをつけた人物が農薬を撒くような、除染作業のようなことをしながら歩き回っている。俺は河南に家がある。帰りたい。湖のほとりで、経典を読むのだ…。この歌に、なぜか胸を打たれた。自分の仕事をしていたらいつの間にか取り返しのつかないところまで来てしまった者の歌だったのだね。ただ、歌詞と彼らのいでたちがあまりつながらないのは、演出としてはどうなのだろう、とも思う。

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 ──どうもピン・ポン・パンという狂言回し的なキャラクタにばかり目がいってしまうのだが、第三幕では彼らはやっと原作通りの官僚やら大臣やらという役柄に戻ったようで、白い長衣を着込んで髪も撫で付け、「誰だあんたら」と思ってしまったくらい、これまでとは別人のようであった(別人なのだろう)。彼らがカラフを誘惑するときに登場する「美女」たちの格好が、ちょっとすごかったね(笑)。リュー役の砂川涼子さんは本当にすばらしい歌と演技だった。とにかく見せ場の多い第三幕で、ティムールの歌もすばらしかった。白と黒のグラデーションの衣装のトゥーランドットが、リューの死を悼んで、遺体の手を胸に当てさせる。

 そして、カラフとトゥーランドットが結ばれる結末になるはずの最後の場面、モノクロームの舞台に赤い花が降り注いだ。美しい場面ではあったが…、しかし、降らしものは中途半端なヴォリュームで終わってしまい、なんだこれ、けちったのかな、などと思っていた。そういえば皇帝も出てこないし、リューは舞台上で死んだままだし、トゥーランドットの表情も妙に硬いし…と、違和感を持っていたら、音楽が大団円になる瞬間、突然、トゥーランドットがナイフで自分の首を掻き切って、暗転した。

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 なんだこれは、と呆気にとられたのだけれど…。終演後も、「なんだったのあれは!」と、騒然とする客席であった。──前情報を何も仕入れずに見に行ったのだが、ハッピーエンドにはしない、という演出家の意図は、示唆されていたようだ。たしかに、最後のあれで、ある意味で、ディストピアが完成した、とも思う。今回、オーケストラはかなりクリアであったので、リューの死より後のプッチーニ没後の補作部分が、それまでとはまったく違う音楽であることがとてもよく感じられたから、取って付けたようなハッピーエンドはなにかおかしい、という意図はわからなくもなかった。

 いろんな解釈ができるだろうが…、トゥーランドットは幼いときに祖母のロ・ウ・リン姫が外国人に犯されるのを目の当たりにし、それがトラウマとなって、貴種の男を殺し続けている、という設定だ(冒頭のシーンはそれだったか、と理解する)。彼女は、復讐のために世界を滅ぼそうとしていたのだ(第二幕でピン・ポン・パンに、この世(英語字幕ではcivilizationと訳されていた)の終わりだ、というような歌詞がある)。

 だがしかし、それならば、死ぬべきはトゥーランドットではなくカラフだったのではないか、とも思う。演出家の意図としては、カラフに愛などなく、トゥーランドットへの執着は権力への渇望だったのだ、ということだそうだ(その解釈はわからないでもない。だって、おかしいもんね、あの人(笑))。であれば、利己的な欲望のためにリューの愛情を踏みにじったカラフこそ死ぬべきであり、トゥーランドットは何者にも汚されずに、これまでもこれからも、この世界に君臨し、そしてそれを滅ぼしてこそ、ディストピアの完成だったのではないか。

 それはともかく、来年の五輪に向けた祝祭的な意味合いのあるこの東京での公演で、こんな前衛的な解釈をやられてしまったのは、非常に面白かった。この公演は東京文化会館新国立劇場のあと、全国数か所で上演し、NHKでの放映も予定されているということだ。