山形から13時55分の仙山線の快速仙台行きに乗る。山形と仙台を結ぶ都市間路線のはずだが、寥々として空いている。そもそも列車も1時間に1本程度しかない。もっとテコ入れできそうなのに…と思ったが、乗ってみるとわかった。すごい山岳路線なのである。維持するだけで大変なのだろう。岩の上に立石寺を見晴るかし、面白山高原という変な名前の駅を過ぎて、仙台の郊外に下りていく路線だった。
仙台では間髪入れずに石巻行きの快速に乗り換える。これは仙石東北ラインという、震災後に建設された東北本線と仙石線をつなぐ線路を通る列車だが、仙台を出てすぐの国府多賀城駅で降りた。
国府多賀城駅というのは新しい駅で、仙石線の多賀城駅ではなく東北本線の駅である。プレハブのような簡素なプラットフォームに跨線橋の駅舎があるが、それに接して、黒っぽい大きな建物がある。
宮城県立の博物館だ。ここを一回りした。
古代の豪族の墓の模型だそうだ。人ひとりの身長に比して不自然なほどの長い横穴を掘り、多くの副葬品。“人にはどれだけの土地がいるか”への、ひとつの答えだろうか…
しかし、藤原秀衡も北畠顕家も、伊達政宗さえも出てこない、東北の歴史、というのは、ちっとも面白くない。だが、公立の博物館の役割はそこではない、というのはわかる。
民俗展示のほうが面白かった。
村境に立てる藁の守り神。それを修繕する人々の映像も。日本とは不思議な国だ、と思わざるを得ない。
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東北歴史博物館の背後の山の上に、“多賀城廃寺跡”がある。陸奥国府だった多賀城は、九州の大宰府がそうであったように、奈良や京都の朝廷の前線基地であり、官寺の伽藍がここに広がっていたのだという。遺跡公園の門の説明看板を眺めていると、後ろの住宅街から女性がすたすたと歩み入って行った。史跡めぐりでもしているのだろうか、と思いかけたが、どうやら、単に地元の人の近道として使われているらしい。
伽藍が広がっていたらしい。南側は、林になった斜面になっている。
海を振り返りながら石段を上り、門をくぐると…
左に金堂、右に塔、そして正面に講堂が…、あった時代のことを、想像できるだろうか。
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今度は国府多賀城駅の北側に向かった。道標に導かれて歩き、小高い丘に登ると、その反対側に下りる途中に、“多賀城碑”の覆堂があった。
多賀城碑とは、奈良時代に立てられた石碑で、『おくのほそ道』で松尾芭蕉がこれを見てたいそう感激している。“多賀城は京を去ること千五百里…藤原恵美朝臣が修造した也”、といったことが書いてある。意外に読める。ついさっき東北歴史博物館でレプリカを見たせいで読めるのかな、とも思うけれど、8世紀の石碑が摩耗もせずに残っておりその字が読めるというのは、たしかに、たいしたことだ。
そして、碑から北にある小高い丘の上の、多賀城政庁跡、つまり古代の陸奥国府に向かう、南大路…を、今、建設している(笑)。
史跡公園を整備したいのはわかるけれど、結局、観光で見られるような史跡というものは本当に昔のままで残っているものなどほとんどないのだ。だから、観光旅行には想像力が必要…。
あおによし、遠の朝廷(みかど)が、ここにあったというのです
奈良時代や平安朝の当時は、もっと海岸線が近かったはずなので、青い海が見えたのではないか。
後村上天皇の行在所、という石碑なので、足を止めたが、これは明治以後に南朝を顕彰する人たちが神社とともに建立したものだそうだ。北畠顕家が親王を奉じて、鎮守府将軍として多賀城に駐留したのは史実であるが、そのときの陸奥国府はどういう姿だったのだろう。
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この日はこのあと、川沿いの田園地帯を、三陸自動車道の高架や新幹線の車両基地などを眺めながら、小一時間ほどかけて利府駅まで歩いた。日常なら歩くような距離ではないが、あてもない旅行である。──駅前にあった飲み屋でよくお酒を飲んだあと、21時前の利府線に乗って、仙台に戻った。利府線とは、東北本線から2駅だけ飛び出した、路線図上で見ると不思議な枝線である。ほとんど乗客のいない夜の上りの利府線の電車に、女性の車掌が、岩切からの小牛田方面や仙台の新幹線乗換えなどの連絡時刻を、几帳面にアナウンスする声が響き、律儀なことだ、と感心した。仙台では駅の東口のホテルに投宿した。