■ポーラ ミュージアム アネックス>ポーラ ミュージアム アネックス展2020 -透過と抵抗-
この展示もオンライン事前予約制。
中村愛子氏のステンドグラス。悪い夢のようで、圧倒的に美しい。
鉛筆画も。
青木美歌氏のガラス作品、久しぶりに見る。
林恵理氏の作品は、床の一面にガラスの塊が並べてあったり、壁に影を落とす紋様のような作品。
■ポーラ ミュージアム アネックス>ポーラ ミュージアム アネックス展2020 -透過と抵抗-
この展示もオンライン事前予約制。
中村愛子氏のステンドグラス。悪い夢のようで、圧倒的に美しい。
鉛筆画も。
青木美歌氏のガラス作品、久しぶりに見る。
林恵理氏の作品は、床の一面にガラスの塊が並べてあったり、壁に影を落とす紋様のような作品。
川崎大師こと、平間寺。門前では飴が名物らしく、あちこちのお店で、まな板を包丁で叩く音を鳴らしている。
経蔵の天井には鮮やかな飛天
菊の品評会。
この、お盆が空中浮遊しているようなのは、「懸崖作り」というのだそうだ
国籍不明の光景で、面白い
*
平間寺の後ろから出て、大師公園を横切っていくと、公園の一角に、中国庭園がある。
立派な太湖石だ
ここは瀋秀園といって、瀋陽市と川崎市が姉妹都市になったのを記念して作られたものだそうだ。日本の公共公園に中国庭園があるのはかなり珍しいのではないかと思う。中は子供が走り回っていた。
長廊。
水が豊かに流れている。
広くはないが、けっこう雰囲気が出ている場所だった。帰りは、公園の南側に出て路線バスに乗ると、競輪場の横などを通ってまっすぐに川崎駅の東口に突き当たる幹線道路だった。さすがにこの道はかなりバスの本数が多いようだ。
岡崎の疏水の船溜まりの近くに、山縣有朋の邸宅、『無鄰菴』がある。ここ、昔から存在は知っていたものの、これまではそれほど興味を持たなかったのけれど、東山の別荘地の面影を残すというこの邸宅の庭園、一度見てみたいな、と思っていた。ここも事前予約が必要なのだが、窓口で「空いてますか?」と訊ねてみたところ、15時からの回に空きがあるとのこと。オフシーズンの平日というのがよかったようだ。
■無鄰菴
『無鄰菴』とは、山縣有朋が山口に持っていた別荘の名前をここに移したものだそうだ。お庭の説明を受けてから、ビールをいただいて、おもむろに庭園を散歩した。
庭に芝生を作るというのが明治時代には新しかったのだそうで、なるほど、と思う。
豊かな水の流れが印象的だ。この水は琵琶湖疏水から引いているということで、それってものすごい権力では…。
日露開戦を決めた“無鄰菴会議”がこの部屋で開かれたという。
洋風の格天井(?)、珍しい。
この、書見台つきの椅子、いいな
*
この日は、東山駅から地下鉄を乗り継いで京都駅に戻り、17時13分の『のぞみ240号』で帰浜した。禍の時代の旅行、気に病むことも多いけれど、適度に空いていて、よいお庭をめぐって満足だった。
出町柳まで戻り、京阪に乗り換えて神宮丸太町駅から疏水沿いを歩いて、岡崎の京都市京セラ美術館へ。
京都市美術館が“京都市京セラ美術館”としてリニューアルしたのは今年の3月だった。正直言って、なんて語呂の悪いネーミングライツだろう、と思うのだけれど、エントランスが一新されていて、これは贅沢な空間だなあ。
ここもやはり入館には事前予約が必要で、だが直前でもわりと取れるようで、スマートフォンで13時30分からの予約を取った。
杉本博司の展示、虚無な感じで、とてもよい。若い人が多い。
直島の護王神社のミニチュア。ここは昔行ったことがある。周りの若い人たちが、「江之浦に同じようなところがあったね」と話している。あそこも行ってみたいんだよな…
あのトンネルの奥に、海景が見えるのだ。
この人の代名詞のような、“海景”シリーズ。
本当に古代の遺物のものと、現代に制作したものが、並んで展示されているので、後世の考古学者を混乱させるためにやっているとしか思えない(笑)
これがタイトル作品、『瑠璃の浄土』。説明によると、古代のガラス玉と室町時代の経箱だという。本当だろうか。
この人は、完全に正気と思われるのになぜかものすごく厳粛なものを作ってしまうのが、本当に不思議な人だ。
庭園に出ると、ガラスの茶室が。「硝子の茶室 聞鳥庵(モンドリアン)」だそうだ。
京都市京セラ美術館、内装も美しい。
この日はまず地下鉄で北山駅へ、そこから一乗寺の方向へ歩いて行った。白川通りを渡って、住宅街に分け入っていく。
まず詩仙堂。
庭は斜面に作られていて、視界には広さは感じられない。しかし、都の灯を遠ざけて(だけれども遠すぎない)隠棲の住まいとしては、たしかに、ちょっといいな、と思う。だが、有名になりすぎているようでもあり、すこし人が多い。ここが有名になったのは何がきっかけだったのでしょうね。チャールズ皇太子とダイアナ妃も訪問したのだそうだ。
ここ、ししおどしの元祖なんでしたっけ。わりと野太い音がするんですね
こういうの流行ってるのかな
*
近くにある圓光寺。ここ、先に来てみたら、閉まっていて、門前で数人の観光客が待っており、よく見ると、本日に限り拝観は11時から、という貼り紙があったので、詩仙堂を先に訪れていたのだった。どうやら何かのカメラが入っていたらしく、門前には、撮影隊のような人たちが何人か残っていた。
奔龍庭という新しい枯山水。なんというか、有無を言わさない何かを感じる。
ここは徳川家康の開基によるというお寺で、裏手の斜面の上に、家康の墓なんていうものがある。そこまで登った。
詩仙堂も圓光寺も、ぼくは18年前に訪れている。何も覚えていないものだなあ…、と、虚無感に襲われていたけれど、圓光寺の庭園の奥の斜面を登って、街並みを一望したとき、ああ、と、記憶がよみがえってくるものがあった。18年も経ったのか、と思う。あのときにどんな未来を自分が想像していたかも今となってはもはや定かではないけれど、少なくとも自分が想像していたようなものではない世界になったのはたしかだ。うつし世ははかない、と思った。
苔のお庭が美しい。
水琴窟。手入れされて澄明な水を保っている。柄杓で地に水を落とすと軽やかな音が聞こえる。音を通すためだろうけれど太い竹筒が二本も地中から伸びていて、ちょっと不思議だ。
木津の駅前は小綺麗なロータリーになっていて、ちょっと殺風景な新興住宅地という感じだ。そこに、小さな車体のバスがやってきて、老人が数人乗り込む。バスは1時間に1本、これも木津川市のコミュニティバスである。駅自体はかなり古くからあるはずだし、人口もそれなりにある土地のはずなのだが…。ミニバスで、旧街道のような県道を行く。近鉄の線路を渡るし、駅(山田川駅)にも立ち寄る。途中、いかにも郵便局、それも集配局の設備があるような建物が、看板が掛け替えられて「シルバー人材センター」になっているのを見て、関西の郊外とはこんな状況なのか、と驚いた。「都心からの交通の便が悪い近郊の衰退」、労働人口が流出し、バス路線が維持できなくなっていく…、首都圏に住むぼくにとっても危機感のあることでもはや対岸の火事ではない。それは昨今の禍によって促進されているように思う。
20分ほど乗って、木津川台7丁目という停留所でミニバスを降りた。広い幹線道路の両側に、整然とした戸建のニュータウンが続いている。同じ関西の、北摂三田ニュータウンあたりを思い出す。関東にはこういう風情の住宅街はあまり思い付かない(千葉ニュータウンの一部が近いような気もするが…)。行政が道路を敷いたが公団の手が入らず道路沿いの少しを除いてほぼ宅地だけ分譲された結果、商業地が形成されず戸建ばかりが並んで、隙間だらけの新興住宅地ができあがった、という雰囲気である。ここが本当に都心のベッドタウンだとしたら、とてもこんなミニバスでは通勤需要には足りないはずなのだけれど。
#どうやら、祝園や山田川から木津川台住宅には、朝と夕は奈良交通バスがあって、なんと奈良交通は日中だけ撤退したらしい。露骨なことをするものだ…。うちの地元もそういうことになりかねない、と、ちょっと寒気がする。
住宅街を突っ切って歩くと、緑地の中の研究所のような建物が見えてきた。
「けいはんなオープンイノベーションセンター」だそうだ。このあたりは、「関西文化学術研究都市」(けいはんな学研都市)という、国が開発した学術地区で、ちょうど関東でいう筑波研究学園都市のようなところだ。だが、人の気配はない。
中を通ること自体は特に問題なさそうだったので、通り過ぎて反対側へ出た。──大通りを渡ると、「けいはんな記念公園」という広い公園の敷地になる。
正式名称は「京都府立関西文化学術研究都市記念公園」だそうだ
ここにものすごい庭園があると聞いたことがあるのを、この日、午前中に祝園で乗り換えたときに思い出したので、寄ってみたのだった。有料200円。
柴垣の道をたどって行く。──なんか、木立の向こうに、ものすごい橋が見えるんだけど…
大きな橋がずどーんとかかっている。なんだこの橋! そして行く手にバクテリオファージみたいな建物が?
すごい高低差だ。
巨石文化の遺跡のようだ
ここは「水景園」というところ。「観月橋」という橋の下に、豊かな水をたたえた、大きな池がある。
圧倒された。こんなスケールの大きな「公園」、見たことがない。
池も、水面に複雑な高低差がつけられて、とうとうと流れている。「水景棚」というそうだ。
池の奥の方に行くと、流れの音が聞こえなくなり、深い山の中の湖のような風情になるのにも驚いた。ここが都市公園だというのだから…。
橋のたもとにある謎の楼閣(「観月楼」)の中は、こういった構成。こう言ってはなんだけど、必要火急の施設は、何一つない(笑)。だからこそ逆に、うらやましい。
だって、このめちゃめちゃな高低差を、人工の都市公園に作ってしまっているのだ。ここは、「現代の回遊式日本庭園」ということになっているが、もはや、新しい時代に生まれた景観の冒険!という感じで、まったく、京都府はものすごいものを造ったな! と舌を巻いた。──17時の閉園まで、この公園をめぐって歩いた。ちょっと時間が足りないかなと思いながら、思い切ってバスに乗って訪れてみたのだったが、来てよかった。
*
帰りは、奈良交通の路線バスで祝園駅に戻り(けいはんな学研都市と祝園駅の間には、通勤時間帯にはそこそこの本数のバスがあるようで、連接バスも走っているらしかった)、近鉄電車で京都の市内に戻った。──京都と奈良の間のこのあたり、これまでなかなか旅行の目的地にはしなかったところだけれど、この日は、よいお寺やお庭をめぐることができた。
コミュニティバスで加茂駅前に戻って、駅の反対側からまた奈良交通バスに乗った。木津川を大きな橋で渡って、五分ほどで降りて少し歩いた。
見に来たのはここ。
礎石はたしかに大きい。恭仁京が、都としては放棄されたあと、大極殿などは山城国分寺に転用され、この礎石は山城国分寺の塔とされているようだ。
ごみ置き場はあんまりなので、まともなアングルで写真を撮りなおす。
ここも言ってみれば、“失われた都”のひとつである。聖武天皇が平城京を捨ててあちこちに遷都していた時期のもので、世が世ならここに大仏が造られたかもしれない土地である。──陽当たりのよい、気持ちのよい場所だ。しかしこの土地に、条坊の都があったとはさすがに思われず(背後は山だし、木津川も近い。木津川の氾濫原からは一段高いところかとは思うが…)、離宮と、それを取り巻く小規模なニュータウンのようなところだったのではないか。
豊かな田園に、彼岸花が咲き乱れていた。
*
木津川を渡る大きな橋は、「恭仁大橋」という
今度は歩いて加茂駅に戻った。適当に歩いてきたら、1時間に2本だけの列車にちょうど間に合ってしまい、大阪行きの大和路快速に乗り込むとすぐに発車した。これで木津に戻る。
この列車は、天王寺に着いてから、西九条→大阪→京橋→天王寺と環状線をぐるっと一周するので、こういう行先の表現になっているらしい。
ここから浄瑠璃寺まで歩くつもりでいた。岩船寺から浄瑠璃寺までは車道がつながっていて、先ほどの路線バスでも行けるが、山道を歩いても1時間程度のようで、途中には古い石仏が点在しているらしい。そういうのどかなところを歩いてみたい。しかも都合がいいことに、岩船寺から浄瑠璃寺へ向かうには、ゆるやかな下りのコースになるようだ。──というわけで、岩船寺の門前から、右に向かう車道を背に、左の道に分け入った。
薄暗い藪の中の道だが…
このあたりは当尾(とうの)と呼ばれる地域で、「当尾の石仏の道」といったように観光案内に書いてある。だが、「石仏の道」というけれど、ぼくが想像していたのとは少し違っていて、石仏とは、岩肌に彫られた磨崖仏なのだった。
どこに仏さまが彫ってあるって…?
これか。“三体地蔵”だそうだ。
“ミロクの辻”。これも、正直なところ言われなければ気づかなかったと思うけれど、たしかに人の手で何かが描かれている…。
道標は整備されていた。
湿った暗い藪のなかの道よりも、陽が当たったほうが、歩いていていい気分になってくる。──下の谷は、一面が葛で覆われていた。荒れた土地だが、こういう、里の近くの山間で葛がはびこっている荒地は、歴史的に一度人の手が入っている土地なのではないかと、ぼくはなんとなく思っているが、どうかな
“笑い仏”だそうだ。これは保存状態がよいせいもあるけど、すばらしいね。
そしてこれは…。写真に撮るといまいちよくわからないけれど、実際に見たときは少しぎょっとした。
“カラスの壺二尊”だそうだ。これは面白い…。
灯籠の火口の部分に穴が彫られていて、実際に灯明を置くことができるようになっている。
“藪の中三尊”。──これまでに見てきた磨崖仏は、鎌倉時代から南北朝時代あたりのものなのだそうで、この“藪の中三尊”はその中でも最も古い、1262年(弘長2年)のものだというのだが…
歴史の研究ではこういうところに彫られている文字を読み取るのだろうね。
*
浄瑠璃寺に足を踏み入れた。山門をくぐった瞬間、ちょっと息をのんだ。
浄土庭園だ…
洲浜の向こうに形のよい朱塗りの三重塔を見る。山の中の寺に来たと思ったら、こんな平安朝の庭園が現れたことに驚いた。
ここは九体寺とも呼ばれ、横に長い本堂に、九体のずっしりとした阿弥陀如来坐像が、並んで安置されている。堂に上がって見ると、仏の前にはほとんど通路ほどの空間しかない。これはあくまでも仏のための建家で、その中に人が上がって何かするような目的の建築ではないのだそうだ。こういった堂を建てるのが、平安時代中期に流行したそうで、今に残るのは非常に珍しいという。九体の阿弥陀如来は順番に修復している最中だそうで、中央にいるはずの阿弥陀如来は不在。代わりに秘仏の大日如来が安置されていた。
そして彼岸へ…
庭園の築山を登って、三重塔の足もとから九体堂を見る。こちら側が浄土なわけだ。
静かでよいお寺だった。
*
浄瑠璃寺までは、奈良駅前から奈良交通の急行バスがあったはずなのだが、昨今の禍のため、運転日があるのかないのかよくわからない。反対側に見えるのがコミュニティバスの停留所。
近くでは猫の集会が行われていた。
翌日は月曜日。9時半頃にホテルを出た。四条烏丸あたりは京都の都心で、勤め人がたくさん歩いている。地下鉄に乗って南へ向かう。地下鉄が地上に出て、終点の竹田に着くと、そこは近鉄京都線と共用の駅で、向かいのホームに近鉄の電車が入ってくる。ちょうど東京の代々木上原や和光市のような駅である。急行橿原神宮前行きに乗り換えた。
今日は京都の市内を離れて、南山城の古寺巡礼に行こうと思っている。目指すのは、岩船寺と浄瑠璃寺である。とりあえず関西本線の加茂駅に向かうが、普通に考えると京都駅からJR奈良線に乗って木津で乗り換えることになるところだが、なんとなく近鉄に乗っている。都心から電車に乗って十数分で田園風景が広がるところが、関西旅行の楽しみである。竹田から30分足らずの、新祝園(しんほうその)という駅で下りた。ここはJRの学研都市線(昔でいう“片町線”)と並行していて、JRの祝園(ほうその)駅と隣接している。
30分ほどの待ち合わせで木津行きに乗り、すぐに木津に着いて、大和路線(関西本線)に乗り換える。
木津で乗り換え
木津と加茂の間は1駅。山を越えて里に出て、急にマンションが見えると、加茂に着いた。加茂は関西本線の途中駅だが、大阪から奈良経由で直通の快速電車はここが終点になる。そのためか、ここが通勤圏の末端のようになっているようだ。
*
加茂駅前のバスロータリーから、木津川市のコミュニティバスに乗る。11時14分発の「加茂山の家」行きである。小さめの車両で、奈良交通バスに委託されているようだが、もともとは奈良交通の路線だったのだろう。加茂駅から、わずかな新興住宅地を出外れると、つづれおりの山道をぐんぐん登る。15分くらいで岩船寺のバス停に着いた。若干の集落もあるようだし、閉まりきった土産物屋などもあるが、バスから降りた二、三組の観光客以外、人気はない。
■岩船寺
本堂に上がると、どっしりとした阿弥陀如来が鎮座していて、見上げるような迫力で圧倒された。僧侶の方の説明によると、天慶年間のものだという。「天慶、ですか?」と驚いてしまった。藤原純友の乱の時代である。宇治の平等院の阿弥陀如来よりも古いというのが、売り(?)のようだ。
これはパンフレットを写したものだけど、実際に堂に上がって見ると、もっと薄暗い。阿弥陀如来像は、3メートルもの高さで、ケヤキの一木造りだという。
鬱蒼とした山中に三重塔が隠れている。ここはあじさいで有名なお寺なんだそうだ。