night and sundial

じゃわじゃわ日記 -the 5th defection-

3/18(水)大報恩寺、等持院

 大徳寺の西側に出ると千本通に突き当たり、その向こう側に佛教大学がある。この日は卒業式らしく、朝の市バスでも晴れ着を着た女性が見えたし、大学の正門の前で記念写真を撮り合ったりしている。ちょうどお昼ごろで、佛教大学前の天下一品でこってりを食べてから、千本通をぶらぶらと南に歩いて行った。

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 千本ゑんま堂という濃厚な地場信仰の場を瞥見したりしながら、千本通を歩く。雁木に沿って個人商店やスーパーがあったりするようすを眺めながら、入り組んだ町家の間の道に入っていくと、行き止まりになったりして迷いながら、大報恩寺にたどり着いた。

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 “千本釈迦堂”として知られる。1227年に建てられた本堂がそのままの姿でここにある、京洛最古の木造建築だという。応仁の乱でも焼けなかったというのだからすごい。

 背後の“霊宝館”は、訪れる人もおらず空気が沈殿した宝物殿であったが、以前に東京の国立博物館に巡回展があった、定慶の六観音像や快慶の十大弟子像が並んでいた。定慶の聖観音像が、均整の取れた美しい像で、見とれてしまう。──ぼくは大報恩寺という名前をこの展示のときに知った。

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 2018年の東京国立博物館『京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』で撮影した聖観音像。

 ここは“おかめ”の伝説が残る寺でもあり、おかめ人形が一面に奉納された部屋などもあったが、ちょっと異様である。

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 この枝垂桜が満開になったらさぞきれいだろう

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 上七軒の町並みを歩いて、北野天満宮へ。

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 そして北野白梅町嵐電の乗り場の前に出た。スーパーの上の階の喫茶店で休憩してから、また歩いて、等持院へ向かう。

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 等持院足利将軍家菩提寺である。足利十五代の木像があることで有名で、以前に九州国立博物館の『特別展 室町将軍』で展示されていたが、行ってみると改修中で、見られるのはお庭だけだった。しかし庭園だけだとしても、ここのお庭は夢窓国師の庭園だし、足利尊氏の墓がここにあるという。

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 方丈で働く職人さんたちの声と、濃い新しい木のにおいを背中に、庭を一巡した。奥行きのあるゆったりとした、よいお庭である。北側には木立の向こうに新しい建物が見えていて、立命館大学衣笠キャンパスだが、それができるまでは、北山の山並みを借景にしたお庭だったという。

 尊氏の墓がどこにあるのだ、と気づかないまま一回りしていた。訝しみながらもう一周歩いて、生け垣に隠されるように、古い宝篋印塔がひっそりと置かれていることに気が付いた。

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 延文三戌年、四月廿九日…だろうか。等持院殿贈太相国一品仁山大居士、とある。延文とは北朝年号で、1358年にあたる

 征夷大将軍にしてはひっそりとした、地味な墓所である。──ぼくは以前から足利尊氏という人にはなぜか興味をひかれるところがある。エリート軍事貴族として郎党を率いて戦争に明け暮れ、肉親と殺しあうような、苛烈な生涯を送りながら、この世は夢のごとくに候、か何か言いながら仏の絵を描いていたという、不思議な人物だ。夢窓国師は、親しかった将軍の墓を、明るくゆったりとした庭園の中に、隠すように作った。それは尊氏自身の望みだったのかもしれない、などと想像した。もちろん、この寺院も庭園も墓石も、14世紀そのままの姿ではないのだろう。だが、六百年以上の時間が過ぎて今、静かな庭がここにあることに、何かしら胸を打たれるものがあった。

3/18(水)大徳寺

 翌日、四条大宮から市バスの46番で千本北大路へ、そこからぶらぶら歩いて大徳寺に行った。

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 大徳寺は、2017年にも来たことがあるが、広い敷地にいくつもの塔頭という小寺院が建ち並ぶところだ。龍源院も、前にも入ったけれど…

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 ここはとにかく品がよくて謹厳なので、好き。

 興臨院のお庭も見る。

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 山門の向こうに法堂と方丈がある。ここは特別拝観中である。方丈に上がると、前庭を挟んで唐門がある。前庭はとても美しい石庭だった。塀に区切られた石庭の向こうに、涼やかな緑の木陰がある。だが、そこにたどり着くことはできないのだ。──不思議な感慨があった。

 法堂の天井には狩野探幽が描いた龍がいる。特別拝観は、京都の観光協会による“京の冬の旅”のキャンペーンによるもののため、誘導の係員が常駐している。そのタイミングで法堂に入ったのはぼく一人だけだった。「そこで手を叩いてみてください」と言われ、パンと叩くと、ビンビンビン…と不思議な反響が聞こえた。それが龍の鳴き声だと言われているのだそうだ。

 そして、国宝の唐門を見る。先ほど方丈の前庭ごしに見たが、表側からも近くに行って見上げることができた。見事な彩色の彫刻で飾られている。

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 総見院では織田信長座像を公開している。秀吉が信長をまつるために創建したという寺院で、信長の法名は「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」というのだそうだ。

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 庭園と茶室が涼しげだ

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 背後の墓地には、“信長一族の墓”がある。もちろん本当にここに織田信長が埋められているわけではなく、供養塔の一つだが、それでも当時からあるものだということだ。

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 白袴のようで凛々しい鐘楼。こういった禅宗寺院の意匠は、好ましい。

3/17(火)京都へ

 新型コロナウイルスによる肺炎の流行が言われる中、休暇を取って京都へ出かけた。海外からの旅行者がほぼいなくなっているし、国内の移動需要も大きく縮小しているようで、東海道新幹線もがらがらに空いていて、ほぼ窓際にしか客がいないような状態だ。新横浜発12時48分の『のぞみ33号』の窓際E席に座り、D席には客が現れないまま、1時間56分で京都駅に着いた。

 市バスの206番に乗って、博物館三十三間堂前で降りる。「博物館は開いていません」と運転士が告げた。

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 蓮華王院、いわゆる“三十三間堂”。ここに来るのはもしかしたら中学の修学旅行以来ではないだろうか。団体観光客が大挙して押しかけるはずの、この千体の千手観音のパヴィリオンも、ときどき若い人の集団がギャアギャア言いながら通り過ぎていく以外、来観者はわずかだった。後白河上皇平清盛に建てさせた本堂だが、鎌倉時代に焼けて再建されているそうだ。それでも鎌倉時代の建物である。千手観音像も、いくつかは実際に創建時から残されているものだという。

 居並ぶ千体の千手観音について、“自分と似た顔の像が1体は必ずいる”などと言われているのは由来不明で不思議だが、なんというか、…そういう問題ではないのだろうな、と思う。そもそもが極彩色に彩られていたはずの堂内に、中央に光り輝く巨大な本尊と、その前に居並ぶ千体の千手観音像。権力と財力を見せつけるような場所だけれど、それと同時に、どんなにか美しかったのだろうと思うし、これだけの迫力をもって末法の世に救済を願った人々が造ったものである。その思いに出会ったように感じて、打たれるような感覚があった。

 さらに二十八部衆のリアルな造形をじっくり眺めたり、俵屋宗達よりも500年近くさかのぼる風神雷神の像に感心したりして、閉堂の時刻まで蓮華王院にいた。

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 この土塀は秀吉が造らせた、太閤塀というそうだ。

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 河津桜

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 智積院の前を左に曲がって、清水寺のほうへ歩く。清水坂はやはり観光客でごった返している。レンタル着物でどやどやと歩くのが、ここ数年の若い人たちの流行である。個人旅行の人たちは特に減っていないようだ。──陶器のお店を眺めて、きれいな貫入が入った清水焼の湯呑を買おうかどうか迷って、結局買わない。三年坂の美術館も休館中で残念だ。

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 二年坂のほうに下りて行った。

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 高台寺あたりの石畳の道。この、和洋折衷のような異形の尖塔、このあたりに来るたびに変な建物だなあと思っているが、昭和3年に建てられた祇園閣というもので、当時の大倉財閥の別荘なのだそうだ。

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 八坂神社の境内に出た。

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 四条通を夕陽が照らす。

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 この日は、先斗町で、うまい京料理がちょっとずつ出てくるお手軽コースで、お酒も飲んで…

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 先斗町も人が少ない

 四条河原町から阪急電車に乗って、四条大宮に出た。今日は四条大宮のビジネスホテルに泊まる。

永青文庫ミュージアム、李禹煥 @ SCAI THE BATHHOUSE 3/7

 新型コロナウイルスの流行が言われる中、3/7(土曜日)は、高田馬場から早稲田大学まで都バスに乗り、少し歩いて神田川を渡って坂道を上ると、左手の林の中に、永青文庫ミュージアムがある。

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永青文庫

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 細川侯爵家のコレクションがあるところだ。いまは、『古代中国・オリエントの美術』の展示中。手のひらサイズの小物入れのような青銅器(“龍文人脚銅櫃”、西周春秋時代)や、透かし彫りの鞘に入った銅剣(“透獣文鞘付銅剣”、春秋時代)など、これまで見たことのないような古代中国の青銅器が珍しい。金文ではないような不思議な書体の漢字が彫り込まれている銅矛があり、解説によると“鳥書”というものだそうだ。

 目玉は、“金銀錯狩猟文鏡”というもので、精緻な人物像や、ぐるぐるした鳳凰の紋様が、金で象嵌されている。古代中国の戦国時代のものだというが、こんなにきれいに残っているものか…これはすごい、と驚いた。洛陽から出土したものだというが、いったい本当に戦国時代にさかのぼるものなのだろうか、と思ってしまう。国宝指定されているからにはある程度出自が明らかなのだろうとは思うけれど。

 「オリエントの美術」のコーナーでは、“ヘルマアフロディーテ”という不思議なローマ時代の像が目についた。ヘルメスとアフロディーテの息子だという美少年で、それがサルマキスというニンフに抱きつかれて合体したところだという。どういう設定だ。──細川侯爵家伝来の高麗茶碗などもあって、熊川茶碗と書いて“こもがいちゃわん”と読むらしいが、16世紀の朝鮮のものである。現在この国では飯椀のことを「ちゃわん」と呼ぶのは、まさにこの時代の形からなのだろうな、などと思う。

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 隣接する細川庭園も散歩。

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 そしてまた薄暗い坂道を登って──このへんは神田川河岸段丘地形らしい──、和敬塾の横を通って目白通りに出た。

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 ミツマタの花が咲いていた

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 東京カテドラルに立ち寄った。

 獨協中学の横を、こんどは坂を下りると、音羽通りである。──上野松坂屋行きの都バスに乗り、ぐるっと不忍通りをたどって、地下鉄の根津の近くで降りた。谷中霊園のあたりへ歩いて行った。

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 スカイ・ザ・バスハウスというところで、李禹煥の作品展をやっている。

SCAI THE BATHHOUSE

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 もとは銭湯だったというギャラリーだ。

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 筆づかいと色の変化だけで構成されている

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 この日は上野駅まで歩いてから帰宅した。

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 上野の博物館群も動物園も、いまはどこも休館中なのだ。人のいない上野公園は広い。

『大清帝国展』@東洋文庫ミュージアム 3/1

 新型コロナウイルスによる肺炎の流行が言われる中、博物館や美術館は次々と休館になっている。開いているのはどこだろうかと調べつつ、駒込東洋文庫に行ってきた。

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東洋文庫ミュージアム

 『大清帝国展』を開催中。

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 ヌルハチ

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 満州八旗が区分けして住んだという、北京の内城。城郭都市である北京の街路や地名が、基本的にこの時代から同じであることに、改めて驚く。

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 皇帝の龍袍。

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 “五爪の龍”は皇帝の象徴だそうだ。

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 乾隆帝の肖像。

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 “皇后”と“貴妃”、さまざまな位の人がいたわけで…(でも同じ顔に見える…)

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 官服につける“補子”という刺繍だそうだ。鳥は文官をあらわすとのこと

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 “準回両部平定得勝図”という乾隆年間の銅版画。西方のジュンガル部や回部への戦勝の記録を、宮廷のキリスト教宣教師(と解説されていたが、伝説の絵師、ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)だよね)が下絵を描いて、なんとパリに送り、パリで銅版画に仕立てられて、北京に送られたという。フランスはルイ15世の時代である。その時代に、そんな東西交流があったのか。

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 “誥命”という、皇帝が爵位を授与するの書。豪華な布帛に満州文字が描いてある

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 出ました、乾隆帝のいいネ!スタンプ、“古希天子”。

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 科挙の答案。金榜さんは殿試で“第壹甲第壹名”、要するに首席合格だったそうです

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 圓明園の巨大迷路、“万花陣”。──これ、北京で見たことある! 今でも残ってるんだよね

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 これこれ。あの圓明園の西洋楼が造られた時代の絵か…。

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 東洋文庫も翌週から休館になってしまった。

2/24(月)山寺(立石寺)、山寺後藤美術館

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 新型コロナウイルスによる肺炎の流行が言われる中、2月24日(祝日)は、東北新幹線に乗って…

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 仙台に現れた。この日の仙台駅の西口は、受験生を応援する東北大学の学生が出ていたりしてにぎやかだった。11時18分、山形行きの仙山線に乗る。立石寺に行こうと思う。高校1年の夏に行って以来である。むせかえるような夏の山の記憶だけが残っている。

 東北新幹線経由の都区内までの乗車券で途中下車しているので、仙台から山寺までの乗車券を買おうとしたが、“山形Wきっぷ”という案内を見つけて、買ってみた。

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 仙台から山寺まででも片道860円なので、往復で1,560円なら安くなる。山形と仙台の間は都市間高速バスが頻発しているが、JRもできる範囲で対抗しているらしい。

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 平地は雪がほとんどないが、山あいに入るとだいぶ雪が残っている。そりゃそうだ、今年の雪の少なさがちょっと異常なのだ。仙台からちょうど1時間で山寺駅(12時17分)に着いた。観光客は皆無ではないが、ごく少ない。赤い欄干の橋を渡って少し歩くと、立石寺の山門に至った。

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 根本中堂。そういえばここは延暦寺配下の天台宗の寺院で、不滅の法灯がともっているそうだが、中は拝観できないようだ。

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 いよいよ山を登る。すっかり油断して普通の靴で来ていたが、雪に足を取られるようなところはほとんどなかった。

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 奇岩が立ちはだかる。そして仁王門が見えてきた

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 そして五大堂まで上がった。ここに来るまでには雪でつるつるになった石段があって、ロープをたぐって恐る恐る昇り降りすることになった。

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 冬ざれた景色。夏に来るのとはだいぶ違う。

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 奥之院まで行ったが、結局、冬は全部閉まっているのだった。寒いが、着こんで山を登っているとだいぶ汗をかいた。下山して、橋のたもとの川の断崖に突き出したようなお店に入り、蕎麦とお団子を食べてから、線路の反対側の山の上にある、山寺芭蕉記念館へ。

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 なんだこりゃ

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 山寺芭蕉記念館では、古いお雛様の展示中。──江戸時代のお雛様はごてごてとした冕冠を再現しており、当時の人も女性天皇とはそういう姿だと思っていたことがうかがえるが、明治以後になると平安時代の女官みたいな姿になる、ということを知った。やはり明治維新は日本の伝統を一回断ち切ってしまっているのだろうか。

 それはそうと、東北を旅行しようとすると、松尾芭蕉とその“おくのほそ道”は、わりと切っても切れない関係にあり、最近はぼくもようやく通読してみたりしたのだけれど、この人が結局どうして旅に出たがったのかが、いまいちよくわからないのだった。

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 芭蕉記念館のすぐ近くに、“山寺後藤美術館”というのがある。

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山寺 後藤美術館

 当地の実業家がバルビゾン派などの西欧絵画を収集したものだそうだ。展示冒頭のムリーリョ『悲しみの聖母』は、マリアの目からこぼれ落ちる涙に、有無を言わさぬ迫力がある。シャルル=フランソワ・ドービニーの絵画は最近何かの企画展で東京に来たものもあったようで(『山間風景、コートレ』は見覚えがあった)、ここが持っていたのか、と感心した。──ドルファン・アンジョルラ (Delphin Enjolras)という画家の名前を初めて知る。暗く青い部屋で、ぼんやりとした赤い光に照らされる女性の姿が魅力的であった。

 そのほか、コローの『水車小屋のある水辺』などもよかったのだけど、最後の方に、クールベの波の絵があって、ここにもあるのか、と思った(クールベは荒波の絵をたくさん描いているらしい)。だがここの波は一味違い、少し青みがかっているし、なにより、クールベが晩年に亡命先のスイスに引きこもってから、追憶で描いた海だというのだ。驚きである。

 ほかにも、ガレ、ドーム兄弟などのアールヌーヴォーのガラスの花瓶(不透明なガラスで美しいが、花瓶に無理やり電球を入れて中から光らせるという無理やりな展示方法であった)、19世紀ドイツの陶板画(くっきりと残っている鮮やかな彩色に驚く)が展示されていた。他の客が誰一人いないので、静かにじっくり好きなだけ見ることができた。

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 山寺駅から15時14分の普通列車に乗って、仙台へ一時間あまり、そしてお土産を買いこんでから、17時21分の東北新幹線はやぶさ110号』で帰京した。行楽需要が縮小している昨今だが、さすがに三連休の最後の日の夕方で、仙台駅はだいぶ混雑しており、指定席券を買おうとしたら新幹線もほぼ満席の模様であった。車内で食べようと思って駅弁を買ったものの、満席の車内で弁当を開けるのはなんとなく気が引けて、待合室で早めに食べてしまった。

舞台「ねじまき鳥クロニクル」@東京芸術劇場プレイハウス 2/15

 新型コロナウイルスによる肺炎の流行が言われる中、2月15日(土曜日)、『ねじまき鳥クロニクル』の舞台化の公演を見に行った。これを見に行くにあたって村上春樹の原作を自室から引っ張り出したが、これはもう“25年前の小説”なのか…と改めて驚いた。チケットを取ってから少し慌てて原作を読み返していたが、2巻の途中までしか読みきれないままで、観劇当日になった。しかしこの話をどうやって演劇にするのだ? と思いながら、池袋の東京芸術劇場へ。ここの「プレイハウス」というホールは、千人入らないくらいの、中規模のホールである。ソワレで18時から観劇。

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ホリプロステージ>ねじまき鳥クロニクル

 3名の生バンドが上手で演奏する。黒服の男が、「照明を暗く…もう少し暗く…」と言いながら現れて、演劇が始まった。舞台はゆるく傾斜がついて、奥が高いらしい。──驚いたのは、主人公(岡田トオル)の俳優が二人クレジットされているのは交代制のダブルキャストなのではなく、本当に舞台上に二人現れる(ときがある)、ということ。よくわからない。そして、人物がベンチソファに座っていると思ったら次々とそのソファの中から(!)ヒトが現れたり、消えていったり、人間とは思われないような体の使い方でくねくねと出たり消えたりする。本当によくわからない。白眉だったのは、間宮中尉が岡田トオルの家を訪問してノモンハン戦争の話をするシーン。間宮中尉吹越満氏、ものすごい体勢で朗々と長い台詞を言い続ける。異常なほどの体幹の強さである。

 しかしそんなわけのわからない俳優の動きは、見ごたえはあって、コンテンポラリーの演劇って面白いなあ、と感心した。ダンサー陣は女性で揃えられなかったらしくスカートを履いた男性が混じっていたりしたが、そのへんは、近くで見るから目についてしまっていけないのだろうな。暗闇に息づくモノたちの群像として見ていればとくに違和感はなかったのだろう。しかし、ときどき俳優が歌うのはちょっと違和感。正直なところ歌唱力が高いと思える人がいなかった、というのもある。

 笠原メイが井戸のふたをドンと閉めてしまうところで1幕が終わり、2幕は赤坂ナツメグとシナモンが登場。赤坂ナツメグが新京の動物園の話をするのだが、その場面で謎の動物が出てくる演出は、さすがにちょっとこれは…と思った。あれはなくてもよかったのでは(赤坂ナツメグ役の俳優さんの演技がねちっこくてどうしても受け入れられなかった、というのもある)。イメージ違うと言えば一番はやはり綿谷ノボルのヴィジュアルだろう…髭なんか生やして、なんというか「悪役」として凡庸な造形だった気がする。この小説の綿谷ノボルってそうじゃないだろう、と。

 笠原メイ役は門脇麦さん。かわいい(^^ …のだけど、お手紙の演出なんかは演劇としてはどんどんまとまりを欠いて破綻していって、でもその混濁がこの小説だとも言える。ぼくは観劇が終わってから購入したプログラムに目を通したのだけど、そのプログラムで、門脇麦さんが「笠原メイ・謎の女の声」としてクレジットされているのを見たときが、この日いちばん驚いた瞬間だった。あの声、門脇麦だったんだ…! 全然違う演技だったじゃないか…女の人って怖いなあ(?)。もしかしてあの脚も? そして、そういう解釈なのか…と考え込んでしまう。

 ぼくはこの小説の最後の、主人公と笠原メイの場面がとても好きなのだけど、その場面の「君がなにかにしっかりと守られることを祈っている…」というト書きが、ちゃんと演劇に採用されていたことに感動した。この小説は、さまざまなプロットが多声的に存在する難解な物語だし、ぼくはべつに主人公が「クミコを取り戻すために戦っている」とも実はあまり思っていないのだけれど、イノセントな存在をからめとって不可逆的に損なおうとするものが世界には紛れもなく存在すること、それに対して反対し続けること──これは村上春樹の小説に繰り返して描かれる構図だと思うが──、その表明のひとつが、あの場面だとぼくは思うのだ。

[追記]この舞台はこの後、2/28以降の公演が中止になった。

「出雲と大和」@東京国立博物館 2/7

東京国立博物館特別展 日本書紀成立1300年 出雲と大和

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 古代の出雲大社が「16丈」もの高さを誇る高楼であったという説、そしてそれが近年発掘されたものすごい太さの柱が傍証となるという話は、有名ではあるが、本当だろうか、と思わなくもない。だが、古代の出雲が紆余曲折の末に大和朝廷に服属した強力な勢力圏であったことは、確かなのだろう。──島根県から、荒神谷遺跡の銅剣などが山ほど来ている。本当にものすごい数の銅剣や銅矛があって、以前に出雲大社の隣にある島根県立古代出雲歴史博物館に行ったときに見て驚いたものだ。三角縁神獣鏡をしげしげと見ていると、なにか字が彫られているが、読めない…。こういうのをじっくり解読していくのは面白そうだなあ、と興味がわく。

 面白かったのは、画面で流れていた、「出雲国造神賀詞」(いずものくにのみやつこのかむよごと)という、祝詞の音声。古代、朝廷から任命された出雲国造が都に上って、天皇の前で奏上する儀礼があったのだそうだ(服属の儀礼なのだろう)。その音声というのが、聞いてもまるっきり理解できないが、ところどころ、「かしこみかしこみ、まおす…」のような部分が聞き取れたりもする。音韻的にも、パ行や「トゥ」などの音が使われていて、現代日本語とは異なる。これが古代の日本語なのか、と感心するが、よく読み方が受け継がれているものだ。

ハマスホイ展 @東京都美術館 2/7

 2008年の国立西洋美術館の展示では「ハンマースホイ」として紹介されていたデンマークの画家 (Vilhelm Hammershøi) だが、今回は「ハマスホイ」という表記になっている。デンマーク語の発音を聴いてどちらが近いかは、正直言って微妙なところで、人によって感じ方が異なるだろう。もとより外国語の発音をカタカナで正確に写すことはできず、「ハンマースホイ」が誤りでもない以上、わざわざ表記を変える必要があったのだろうか、と思う。

東京都美術館ハマスホイとデンマーク絵画
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 グレーの色調で描かれた、時間の止まったような部屋たちの、独特の質感がすばらしい。寂しくもあるけれど、不思議な肯定感も感じる。

 一番気に入ったのはこれ。『農場の家屋、レスネス』。白い光、動かない空気、静けさ…。
Vilhelm Hammershøi, Fra en bondegård, Refsnæs, 1900, B 306, Davids Samling
(via Wikimedia Commons)

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 同時代のデンマークの画家の作品で、気になったのは、この絵。スケーインというユトランド半島の最北端の漁村で、自然の風景とそこに暮らす人々を描いた、“スケーイン派”という画家たちがいたのだそうだ。(この“スケーイン”という地名も、従来は“スケーエン”や“スカーイェン”と紹介されているものだ)。──この絵、夕暮れの情景だというのだけど…

Peder Severin Krøyer - Summer evening at the South Beach, Skagen. Anna Acher and Marie Krøyer - Google Art Project
(via Wikimedia Commons)
(ピーザ・スィヴェリーン・クロイア、『スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア』)

 北欧の夕暮れとは、こんなふうに、薄青い光が空気を満たすのだろうか? ──その瞬間を見てみたい、と思った。

ブダペスト展 @国立新美術館 1/19

国立新美術館ブダペスト ヨーロッパとハンガリーの美術400年
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 ブダペスト国立美術館から、ヨーロッパ美術の品々が来ているそうだ。ハンガリーは、歴史的にはドイツ系の支配を受けていたり、オスマン帝国の支配で欧州から切り離されたり、という境界的な国で、どういう展示なのだろうと思いながら展示場に入ると、冒頭に置かれているのがまずルーカス・クラーナハの『不釣り合いなカップル』という異様な絵だった。いきなりこれか…。16世紀ネーデルラントやイタリア・ルネサンスの絵画にはそれほど興味が持てず、なんとなく行き過ぎる。──面白くなってくるのは19世紀以降の絵画で、ムンカーチ・ミハーイという画家の名前を初めて聞いた(ハンガリー人の人名は姓・名の順なので、姓が“ムンカーチ”である。また、この人の生まれた土地は、現在ではウクライナ領にあたるところだということだ。カルパチア山脈の東側までハンガリー領だった時代があるということで、民族と国境線の変遷が激しい)。老いて威厳に満ちたフランツ・リスト肖像画にも感心したが、『ほこりっぽい道』のぼんやりとした画面にしばらく立ち止まってしまった。なんというか、祖国に帰ってきてこの風景を見て、描かずにいられなかったんだろうな…、と、画家の気持ちが伝わってくるような気がしたのだ。

Hungarian National Gallery - Dusty Road II. Mihály Munkácsy

 目玉になっているのは、シニェイ・メルシェ・パールという人の『紫のドレスの婦人』という絵だが、この絵、草原の緑色に対して鮮やかな紫色のドレスが引き立っていて、見た瞬間にカラーバランスをぎゅっと調整されたように錯覚するほどだ。──気になったのは、ギュスターヴ・ドレの『白いショールをまとった若い女性』という絵。こんな逆光の絵、ありなの? …でも、まるで、風がさっと吹いて目を上げたときにまぶしくておぼろに見えたその瞬間の光が描いてあるようで、なんだかはかなくもあって、…この表現にはやられてしまった。

Young Woman and a White Scarf by Gustave Dore, 1870,
(via Wikimedia Commons)